2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その39)

「本当にね、天使みたいな子なんだよ」
 激しく愛し合った後で、光一は必ず翼の話をする。
「あの子のピアノを君にも聴かせたいといつも思うんだ。音の一粒一粒がキラキラ輝いて、天国から降ってくるお菓子のようだよ。音楽とはこんなに素晴らしいものだったのかと、今まで聴いてきた音楽は何だったのかと、世界がひっくり返ってしまって、あの子のピアノを知った後は、全ての音楽が味気なくなってしまうから、聴かない方が良いのかもしれないね」
 どっちなんや! 光一は気持ちが高ぶるとだんだん何を言っているのか分からなくなる。別に俺は光一の言いたいことを正確に理解したいとは思っていないので放っておく。
「ホテルで弾いたとだろ」
「よく覚えてるね」
「何度も聞いとるけん」
 光一は二十歳も年下の翼に童貞(処女?)を奪われた。自分の身にこんなことが起きるなんてと呆然としていたら、翼はホテルのロビーに置いてあるピアノを弾き始めた。
「止める間もなかった。そこにピアノがあれば弾くのが当然と思うらしくてね。最初は『華麗なる大円舞曲』だったかな。あまりにも見事で、活き活きとした演奏だったから、誰も文句は言わなかった。ピアノの周りに人が集まってきて、翼はリクエストに応え始めた。ポップスだろうがタンゴだろうが、事も無げに弾きこなすんだ。観客はみんな笑顔だったよ」
「そして最後、翼は誰も知らない曲を弾いた」
「そう。長く夢を見過ぎて、現実に戻れなくなった苦しみに、甘く溺れてゆくような旋律だった。僕はクラシック音楽に詳しい訳ではないから、ロマン派の、それほど有名ではない曲なのだろうと思った。演奏を終えて、満場の拍手に振り向きもせずに、翼は僕だけを見つめて駆け寄ってきた」
「最後に弾いた曲の名前を教えて」
「光一と一緒にいると聴こえる音楽だよ」
 光一は感極まって、後ろから抱きかかえている腕をぎゅうっと強く締める。人の肌はあたたかい。その人が何を思っているかに関係なく。
「それで光一は翼にメロメロになった」
「その前からなっていたけどね。絶対追いつけない同級生に憧れるように、僕は彼に恋をしたんだ。会えなくなるのがただただ恐ろしくて、年上の余裕などまるで無かった」
 翼が東京に行ってしまった後、光一は飲まず食わず会社にも連絡せずで数日間泣き続け、肉体的にも社会的にも死にそうになった(親切な会社の同僚に発見されて助かった)
 そして翼を失った寂しさをごまかすために、光一は俺と付き合い始めた。一番になれないことは、最初から分かっている。
「もう一度翼と会えたら、よりば戻すと?」
「可愛い上に積極的な子だもの、今頃は東京で十人目くらいの恋人とイチャイチャしているよ。僕のことなんか忘れてしまったんじゃないかな」
 問題は翼ではなく「光一が」どうするかだ。偶然どこかで翼のピアノを聴いた光一が、悪魔の笛の音に引き寄せられる子供みたいに、フラフラと翼の方へ行ってしまって、二度とこちらに戻って来ない。そんな状景がありありと心に浮かぶ。
「正月は仕事?」
「うん。光一は鎌倉に帰ると?」
「その予定だよ」
 もし悪魔が弾くピアノを聴いたとしても、俺を忘れんで欲しい。強く祈れば光一に届くだろうか。すぐそばにいる、遠い人。
「いつか君を両親に会わせたいんだ。恋人と紹介することは出来ないけど、お世話になっている親友だと言えば喜ぶと思うんだ。僕が離れた土地で孤独に暮らしているのを、ひどく心配しているから」
「世話しとらんし」
「そんなことない」
 光一は俺の首筋を唇で撫でた。じっとしていられない太ももに右手が伸びてくる。
「僕はずっと、自分の欲望は迷惑にしかならないと思い込んでいたんだ。僕みたいな人間だって、人を愛しても構わないと、許してくれたのは翼なんだ」
 抱かれるのをやめて光一の上にのしかかる。光一の、抱えきれない大きな体が好きだ。俺の背中に腕を回しながら光一は言う。
「僕の人生を小説にしたら、終わりはきっとこうだ」
 天使を失った不幸な男は、二人目の天使を見つけた。
「そぎゃん男、不幸じゃなか!」

(終わり)


posted by 柳屋文芸堂 at 01:02| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。