2015年12月20日

贋オカマと他人の恋愛(その4)

「今度一緒に能を見にいかないか」
「えっ……」
 周平は何故か怯えた様子で一歩下がる。
「二人で会うと克巳がギャンギャン言うだろうから、三人で」
「絶対寝ちゃうよ。僕も克くんも」
「映像で見るのと全然違うって。狂言もやるし面白いぞ」
「うっかり眠り込んでイビキかいたりしたら周りの人に悪いじゃないか」
「その場合、つねって起こす」
「叫び声上げちゃったらどうするの…… それに能のチケットは高いでしょ? 僕たちとても払えない」
「それは気にするな。俺がおごる」
 正確には「俺の母親が」だな。
「えー うー」
 注射を受ける犬のように俺から離れたがっているのがよく分かった。そんなに嫌か、能が。
「睨まないでよ〜」
 俺はそっぽを向き、自分が傷ついているのに気付く。
「ねえ、歌舞伎はどう?」
「歌舞伎なんてつまらないだろ」
「僕、歌舞伎を見たことないんだよ」
 俺は驚いてひっくり返りそうになった。
「そんな奴いるのか! 学校の鑑賞教室で連れていかれたりするじゃん」
「僕の学校にはなかったなー あったとしても覚えてない」
 俺は毎週のように歌舞伎座や国立劇場に通っていたから、周平も飽きていると勝手に思っていたのだ。
「正直言って僕は歌舞伎に全然興味ないんだけど、克くんが喜ぶんじゃないかと思って。藤娘のカードもうっとり見てたし」
「正体が俺だと分かるまでだがな……」
「ね。三人で歌舞伎を見に行こうよ。コーヒー飲んで寝ないよう頑張るからさ」

 デートの約束というのはこんな風にワクワクするのだろうかと想像する。相手がゲイカップルというのが侘しいが。同年代の友人が一人もいなかった高校時代に比べれば、俺の周辺もずいぶん華やいだじゃないか。
「貸衣装で着物を借りて着せてやって、歌舞伎に連れていこうと思うんだ」
 夕食の時、母親に計画を話してみた。
「貸衣装なんてケチ臭いこと言わないで、着物も作ってあげたらいいじゃない」
「え?」
 それは幾分やり過ぎなんじゃないか。
「採寸して体にぴったり合ったものを着た方が気持ち良いでしょ」
 確かに母親の言うことももっともだ。この機会に、周平と克巳が着物を好きになってくれたら俺も嬉しい。
「という訳で、着物を作りに行くぞ」
「本当に良いの?」
 俺を先頭に三人で、日本橋の馴染みの店に向かう。
「ママに請求書送ったりしたら許さないからな」
 ママ? と思うが突っ込むとまたうるさくなるので追及しない。
「俺の顔を見たら自動的にうちの母親に請求が行くようになってる。悪徳商法じゃないから心置きなく好きなの選べ」
 十九、二十という年齢のせいか、若草色や、空色に見える細い藍の縦縞など、明るい色の反物が次々と二人の前に広げられた。
「何がなんだか分からないよ〜」
 周平が目を回し始めたので、店員の説明を断り、自分たちでケースを見て行くことにした。
「僕はこれが良いなぁ」
 周平が指差したのは、亀甲柄の泥大島だった。鉄瓶に似た渋い黒で、柄が細かいため遠くからだと濃い鼠色に見える。
「良いんじゃねえか。お前はおっさん顔だからこういうの似合うと思うぞ」
「君は失礼なことを言わないと気が済まないんだねぇ」
 問題は克巳だった。周平と同じ布にすると言って聞かないのだ。
「克くんはもっと若々しい着物の方が似合うと思うよ」
「やだっ 周平とペアルックにするっ」
 よくもまあ恥ずかしげもなく『ペアルック』なんておぞましい単語を口に出せるもんだ。俺もお店の人も見えなくなっているのだから仕方ない。
「大島は長持ちするから、じいさんになるまで着続けたらいい。お前百までわしゃ九十九まで」
 それを聞いた克巳は、あのぱあっと光る笑顔になって、
「二人とも長生きして、ずっとこの着物を一緒に着よう。周平が死んじゃったら、おれもすぐ死んじゃうから」
「そう考えると、若い頃しか着られない着物は損だね」
「年食って明るい色の着物を着たら、落語家と勘違いされる」
「笑点!」
 採寸してもらい、二人は同じ柄の泥大島で着物と羽織を仕立てることになった。帯や草履もサイズだけ違う同じ物。足袋に長襦袢、肌襦袢、腰ひもと、着物を着るのに必要な小物は全てそろえた。
 着物が仕上がるのを待って、三人の予定を合わせ、歌舞伎のチケットを取る。予想より壮大な計画になってきた。
 見に行く演目は俺の独断で「二人椀久」にした。「勧進帳」「東海道四谷怪談」あたりが初心者向きかと考えたが、ちょうど行きたい時期にやってなかったのだ。歌舞伎を見たことのない人間が何を面白がり、何をつまらなく思うのか、この世界に馴染み過ぎている俺にはもはや想像出来ない。
 二年後期の試験が終わって、三月。夕方の開演までに着付けと食事が済むよう、午前中のうちに二人を俺の家に呼んだ。
「お城みたいな所に住んでるのかと思ってた」
「割と普通だね」
「でも柱が太くて立派だ」
 そう言って克巳は壁をコンコン叩く。
「点検してないでとっとと服を脱げ」
「えーっ 七瀬くん、こっち見ちゃダメだよ」
 克巳は赤くなっている。
「はぁっ? 何でだよ」
「裸は周平にしか見られたくないっ」
「くだらねぇ……」
「そう言えば、ふんどし買わなかったけど、パンツのままで良いのかな」
「周平のふんどし姿見たいなぁ」
 克巳は周平を見つめて目を細める。
「周平もおれのふんどし姿見たいよね?」
「まぁ……」
 周平は克巳と視線を合わせて顔を赤らめる。
「えーい変態どもっ ちゃっちゃと足袋とステテコをはけっ」
 着せてみると、予想以上に周平は着物が似合った。渋い色と柄のおかげでふっくらしたほっぺたは落ち着いた印象になり、小太り体型は威厳を感じさせる。
「周平、格好いい〜 押し倒したいっ」
「俺が着せたものをすぐ脱がす奴があるか」
 一方、克巳は予想通り大島が似合わなかった。子どもっぽい女顔で痩せている上、背が低い。小学生の女の子が父親の背広を着たようなちぐはぐさ。
 こいつに似合うのは京鹿の子絞りの振袖だ、と思い付く。もちろん自宅を血の池地獄にしたくないので口には出さない。
「俺も着るからちょっと待ってろ」
 トランクスだけになると、ペアルックの二人が口を半開きにしてこちらを見ている。
「見世物じゃねーぞっ」
 俺はドン! と大きな音を立てて床を踏んだ。二人は慌てて後ろを向く。
「周平、いやらしい目で七瀬くんのこと見てた!」
「克くんも見てたじゃないか」
「だって、貧弱なのかと思ったら全然違うんだもん……」
「日舞をなめるな」
「やめたんじゃなかったの?」
「習いに行ってないだけだ。練習は続けてる」
 帯を締め、羽織紐を結び整え、
「もういいぞ」
 こっちを向いた周平が呆れたように言った。
「派手だなぁ……」
 俺がその日着ていたのは、丹後ちりめんの真っ赤な着物と、本塩沢の白い羽織だった。
「こと着物に関して、俺は派手じゃないと落ち着かない」
「洋服だって派手じゃん」
 母親は何故か赤飯を炊き、鶏の唐揚げと、カリフラワーとグリンピースの入っているサラダを出した。
「遠慮しないでどんどん食べてね」
「こ、この度は……着物を作っていただきありがとうございます」
「ありがとうございます」
 まず周平が、続いて克巳がぺこりと頭を下げた。
「いいのよ。うちはお金が余ってるの」
 母親はそれだけ言うと台所の方に消えた。
「唐揚げ美味しいね」
「あったかいお赤飯も美味しいよ」
「ごま塩! ごま塩!」
「僕、たまにスーパーでお赤飯買って食べるんだけど、冷えてて」
「周平、そんなにお赤飯好きなんだー っていうかチンしなよ」
「面倒でそのまま食べちゃうなぁ。あっ、本当だ、唐揚げ美味しい!」
「食べ過ぎて気持ち悪いとか言い出すなよ。帯締めて、いつもと違うんだから。あと肉ばっかじゃなく野菜も食え!」
 母親に見送られ、電車と地下鉄で歌舞伎座に向かう。途中、すれ違う人たちがチラチラこちらを見ていた。同じ着物を着て手をつなぎ歩くゲイカップル、ではなく、その前を偉そうに歩く紅白の俺が目立ったのだろう。成人式でもない平日の昼間に、着物の若者が三人というのも物珍しい。
 克巳は終始ごきげんで、甘ったるい声で周平に話しかけ続けた。
「周平と一緒に出掛けられるの、嬉しい!」
「いつも部屋の中にばかりいるもんね」
「いつか旅行にも行きたいっ」
「お金持ちになったら」
「お金持ちになったら!」
 周平はウェイターのバイトをしていたが、一人暮らしをしているせいもあってかつかつで、克巳は学校の課題が多くて働けないと言っていた。
「早く着き過ぎたな」
 歌舞伎座はまだ開場しておらず、東銀座駅の出口周辺におばさんたちがあふれ返っていた。空いている場所を見つけ、三人でしばし佇む。
「お前、ほんっと似合わねぇな、泥染め」
「うるさいなー 好きなの選んで良いって言ったじゃん!」
 克巳がシャーッと毛を逆立て始める。
「ちょっと俺の羽織と交換してみろ」
「やだっ」
「白の方が絶対似合うって。周平が惚れ直すかもしれないぞ」
 周平は直す余地もないくらいおれに惚れてるんだから惚れ直したりしない、と訳の分からないことをブツブツつぶやきながら、克巳は白い羽織を着てみせた。周平がどう反応するか知りたくなったのだろう。
「痛々しいな」
「うん、痛々しいねぇ」
「こっち着ても貶すのかよっ」
「いや、そうじゃない。俺が言うと怒るから周平言え」
「どこかのお姫様が、事情があって男装してるみたいに見える。似合ってるよ、とっても」
 克巳は小さくため息をつき、羽織を脱いだ。
「似合うのが嫌だから、明るい色を避けるんじゃないか。洋服も」
「そう言えばお前、深緑とか焦げ茶とか、パッとしない服ばっか着るよな」
「ボクだって本当は……」
「あっ、開いたみたいだよ」
 慌てて合切袋からチケットを出し、二人に渡した。おばさんたち(おじさんも多少混じっている)の流れに加わって扉をくぐる。
「ここで待ってろ」
 筋書きを二冊買って戻り、二人を席に連れてゆく。前から五列目、ほぼ真ん中。
「これ読んで予習しろ!」
「パンフレット?」
「そうだ」
「映画のより分厚いんだね」
 周平はあらすじを読み始め、克巳は役者のカラー写真をじっと眺める。
「ねえ、周平見てよ。この人とっても綺麗だねぇ」
「克くんは女形が好きなんだね」
「綺麗なものは何でも好きだよ」
 克巳は周平の肩にそっと頭を載せ、目を瞑った。
「俺、売店行ってくる」
 モナカアイス、は開演前に急いで食べると寒いな。弁当、だとさっき食事したばかりだから多過ぎる。
「サンドイッチ買ってきた。食え。お手拭きもある」
 周平が肩を震わせて笑い、克巳も目を開けた。
「君はアイドルみたいな顔してるくせに、中身はおばちゃんだよねぇ」
「おれ、前からそう思ってたよ」
 仕方ないじゃないか。これまでの人生、おばちゃんに囲まれて暮らしてきたんだから。
「ん? 何で俺の隣が克巳なんだ」
「周平の隣になんて座らせないっ! 危険だもん。暗い中でこっそり手をつないだりしたら」
「周平と手なんぞつなぐかバカッ」
「小学生じゃないんだから、席順でケンカしないでよ……」
 幕の内側から三味線の音合わせが小さく聞こえ、拍子木がキン、キン、と高い音で鳴り、開幕を待つ高揚感が劇場に満ちる。
 ガサガサガサッ
 ちーるー ちるー
「おいっ」
 音の元を見ると、克巳の向こうの周平がレジ袋から紙パックの飲み物を出し、ストローを挿して吸い上げている。
「もうじき始まるぞ。静かにしろよ」
「うん、大丈夫」
 ペコペコと紙パックを潰してガサガサとレジ袋に戻す。音が響いてヒヤヒヤする。
「コーヒー牛乳飲んだんだ。眠くならないように」
「コーヒー牛乳で眠気飛ぶか……?」
 幕が開き、客席の照明がゆっくり落ちてゆく。
 実を言うと、前半の演目はそれほど好きな話ではない。出演者を変えてしょっちゅう上演されるので、うんざりしてもいた。周平と克巳は観劇マナーを知っているのだろうか、途中で何かやらかすのではと不安だったが、おとなしく最後まで見ていた。
「どうだった?」
「面白かった!」
 反応が良いのは克巳だった。
「ポーズ決めるんだね。戦隊ものみたいに」
「見得切るところだな。セリフは理解出来たか?」
「半分くらい」
「……僕、トイレ行って来るね」
 周平がお腹を押さえて立ち上がる。
「痛いの?」
「うん」
「コーヒー牛乳を一気飲みしたりするからだ」
「おれも一緒に行こうか?」
「克くんが来ると気になっちゃうから一人で……」
 心ここにあらずの態で周平はロビーに出ていった。
「今生の別れみたいな顔で見送るなよ」
「大丈夫かな」
「腹壊しただけだろ」
 周りの客は一斉に弁当を食べ始めた。おしゃべりと食事の音で劇場全体がさんざめく。
「お前も弁当いるか? 欲しければ買ってくる」
「いいよ。お腹空いてない。七瀬くんのお母さんの料理、美味しかった」
「そりゃ良かった」
 克巳はこちらを向き、小さな声で言った。
「七瀬くんって本当にゲイじゃないの?」
「違うよ」
「じゃあ女の子と付き合ったことある?」
「ない」
「エッチしたことは?」
「ないよ」
「童貞なの?」
「そこだけ大声で言うな」
「それじゃあ、ゲイかどうか分かんないじゃん」
「自分の性的指向がどっち向いてるか、中学生くらいで気付くだろ」
「そうかもしれないけど……」
 克巳は背もたれに頬をくっつけて女性的なしなを作る。俺がやるとしたら何度も練習しないと難しいような動き。克巳の仕草は自然で愛らしかった。
「周平に告白されても、ちゃんと断ってね」
 こいつは本物のアホだ。本気で心配しているんだ。こんなにはっきり「いじめて欲しい」という顔をされたら、素直にいじめる他ないじゃないか。
「そうねぇ、付き合っちゃおうかしらっ 周平くん、キスがとっても上手だし」
 何故オカマ言葉。と自分にツッコミを入れつつ、人差し指をあごに当てながらブリブリと言ってやった。笑うかと思ったのに、克巳は目に涙をためて俺を睨んだ。
「ただいま〜」
 周平がモナカアイスを食べながら帰ってきた。
「お腹壊してるのにアイス。しかも自分の分だけ」
「壊してなかったんだ。快腸、快腸。アイス、欲しければ買ってくるけど?」
「俺はいい」
 克巳はうつむいて黙っている。
「着物、着崩れなかったか?」
「トイレ出たところで知らないおばあさんに『ちょいと坊ちゃん!』って呼び止められて、その人が帯締め直してくれた」
「そいつは幸いだったな」
 周平が席に座ると、克巳は周平のてのひらをぎゅっと握った。周平の顔が険しくなる。
「七瀬、克くんに何か言ったね?」
 何でそれだけで分かるんだ。
「周平がいない間に浮気しよう、って誘ってきたんだよ。確かに俺の方が美男子で君が発情するのも当然だ。しかし周平を裏切る訳にはいかな…… いってぇーっ!」
 克巳は俺のすねを草履で蹴った。素早く効果的な攻撃だった。
「お前、これ必殺技だろ。弁慶…… 痛ぁ〜」
「克くんが浮気なんてする訳ないじゃないか」
 周平は克巳のてのひらを両手で包み、子どもを相手にするように優しく言った。
「七瀬はひねくれ者だから、反対の言葉でしか愛情を表現出来ないんだよ。もし克くんが酷い言葉を言われたなら、それは七瀬が克くんのことを大好きって証拠だ」
「こんな奴に好かれたくないっ」
「ほら、次の舞台にさっき克くんが見てた、綺麗な女形の人が出るよ。機嫌直して」
 まるで幼稚園だ。でちゅよー バブゥー 全部お見通し、みたいな周平の態度にムカついて、俺は無言になった。
 周平と克巳は筋書きを開き、次の演目である「二人椀久」の解説を生真面目に読んでいる。
「この話にも『井筒』が出てくるんだね」
 周平が何事もなかったように明るい声で言った。
「そうだ。ネタバレになるが……」
「つついつのいづつにかけしまろがたけ」
 突然呪文を唱えるように言い出したのは、克巳だった。
「へー お前理系なのに『伊勢物語』読んでるんだ」
「分かんない。急に出てきた。たぶん高校の古典の先生が仕込んだんじゃないかな。もし『井筒』という単語が入力されたら『つついつのいづつにかけしまろがたけ』と出力しなさいって」
「さすが中高一貫の進学校は違うねぇ」
「その歌の意味は分かるか?」
「幼馴染み」
「短か過ぎる」
「うーん。『つついつのいづつにかけしまろがたけ』と言われたら『幼馴染み』と返しなさい」
「丸暗記というよりほとんど機械だな……」
 また怒り始めるかとびくついたが、機械と言われるのはそれほど嫌ではないようだった。
「子どもの頃、井戸のあたりで遊んでた幼馴染みの話なんだよ。大人になって疎遠になって、でもやっぱりあの人と結ばれたい、と願って贈った歌だ。井戸の囲いより低かった背も、あなたに会わないうちにすっかり伸びて大人になりました。結婚しましょ、そうしましょ」
「背が伸びないとプロポーズ出来ないのか……」
「いや、そこにショックを受けなくてもいい。ざっくり言うと『井筒』は昔馴染みの恋人同士の記号なんだ。だからお前の丸暗記は間違ってないし無駄じゃない。周平よりよっぽど話せるじゃないか」
「すごいねぇ、克くん」
「えへへ」
 少しは悔しがれよ周平。周平と克巳は愛しそうに肩を寄せ合って、頭をこつんとやわらかくぶつけた。
「で、この『二人椀久』は……」
 場内が暗くなってゆく。俺は話すのをやめ、周平と克巳は筋書きをカバンにしまった。

 狂気に浮かされた男が花道を進む。「二人椀久」の主人公、椀屋久兵衛。遊女松山に入れ揚げ、座敷牢に閉じ込められた挙句、そこを抜け出しさまよっているのだ。松山に恋い焦がれる久兵衛は、ふらふらと本舞台にやって来る。歩き疲れてまどろむと、そこに松山が。二人は一緒に踊り始める。
 この話にセリフはない。音楽と体の動きだけでストーリーと情感を表現する。久兵衛が松山の打掛けを羽織るのは、能「井筒」の井戸を覗く場面を踏まえているのだろう。
 久兵衛と松山は幸福に、愛を確かめ合うように踊り続けるが、音楽と感情がクライマックスに達した瞬間、松山は久兵衛の前から消えてしまう。
 じゃらくら じゃらくら
 じゃらくら じゃらくら
 印象的な歌詞が耳に残る。二人は再会を果たした訳ではなく、松山は幻影でしかなかったのだ。一人になった久兵衛は舞台にくずおれ、その寂しくあわれな姿に客席はしんみりした雰囲気になり…… 幕。
 いやー 良かった、良かった。最高、最高。そう思って横を見ると、克巳が顔をぐちゃぐちゃにして泣いていた。膝あたりの布を握り締め、えっ、うっ、としゃくり上げている。
 周りの観客は立ち上がり、出口に向かって動き出した。周平が席を立つと、克巳は周平の羽織の袖にすがりついた。
「どこにも行かないで……」
「行かないよ〜」
 周平は克巳を腕の中に引き寄せ抱き締めた。手慣れた動作だった。周平は俺の顔を見て、困ったように微笑む。
 久兵衛と同じくらいバカな男がここにいることを、他の客は誰も知らない。幕の裏で大道具を片付けるバタバタした音だけが、劇場に響いていた。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:07| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする