2015年12月20日

贋オカマと他人の恋愛(その6)

 三年生になると、学年全体が将来に向かって動き出すような感覚があった。マスコミを目指す連中は政治・経済の勉強をし始め、教員や公務員になるために予備校に通い出す奴もいた。周平は英語、克巳は情報処理の資格を取ったと言う。
「少しでも履歴書に書けることを増やしたいからね」
「情報処理の試験は会社に入っても受けさせられるんだ」
「僕も?」
「周平が行くような所のことは知らないよ。技術者は、って話。どうせやるなら学生のうちに取れるだけ取っておこうと思って」
「ご苦労だな」
 俺は読んでいた文庫にしおりをはさみながら二人を見た。
「完全に他人事だね」
「俺は就職しない。博士課程まで行ってその後も大学に残る」
「学者として生きるのって大変なんだよ」
 克巳の伯父は別の大学で教授をしているという話だった。
「承知の上だ」
「色仕掛けでどうにかする? 文学部は女の先生多いしさ」
 あごを上げて笑い、克巳は全力で俺を蔑もうとする。
「こう見えても七瀬は頭が良いんだよ」
「こう見えても、って何だ!」
「文学部の勉強なんて遊びみたいなもんじゃん」
「お前、周平には絶対そんなこと言わないだろ」
「まあ確かに会社に入ったら全く役に立たないだろうね」
「自ら文学を否定するな、周平……」
 不安なのはみな同じだった。もし学問の世界で職を得られなかったら。ネクタイ締めて満員電車に揺られる自分なんてうまく想像出来ない。周平は特に疑問もなく、大学を出たらサラリーマンになるつもりでいるらしい。三年の秋には気の早い企業が会社説明会を始め、そのたび授業を休む周平のために俺はノートをコピーしてやった。
 後期試験の後、所属するゼミが決まった。担当教授は歌舞伎の入門書も何冊か出している気さくな先生で、俺が提出したレポートを気に入ってくれていた。
 周平は映画のシナリオを読み込むゼミに入った。最初の顔合わせで、
「映画は年に一度くらいしか見ません。分からないことばかりですがよろしくお願いします」
 とにっこり自己紹介し、他のゼミ生をあぜんとさせた。周平以外は全員「年に数百本見るのは当然」の映画マニアなのだ。
「みんな親切にあれこれ教えてくれるよ」
 と嬉しそうにしている。そういう状況がどうして平気なのか。無知であることへの羞恥心の無さが羨ましく、少々恐ろしくもあった。

 俺の人生が唐突に狂ったのは、四年の六月。一週間続いた雨がやみ、色の濃い青空と濡れた草木が美しい朝だった。
「貯金が二百万円になっちゃった」
 ご飯にちりめん山椒をかけながら、母親は何気なく言った。
「俺用の通帳?」
「ううん。うちの全財産」
 透明な蝶のように言葉が脳を通過していく。二百万。全財産。……全財産?
「この間まで五百万くらいあったはずなんだけど、夏物買ったりしたら無くなっちゃって」
「ちょっと待てよ」
 母親はご飯を咀嚼し緑茶を飲んで、いつも通りの笑顔をこちらに向けた。
「今日から我が家は貧乏になります」
「貧乏って……」
 俺は貧乏なんて知らない。思考のスイッチを切られ頭が真っ白になり、目が勝手に見開く。
「明日から何食べるんだ」
 母親は声を立てて大笑いした。
「大丈夫よう。そんなすぐに飢えないから」
「でも、どこからもお金が入る当てなんか無いし」
「そう、その話がしたかったの! お母さん、来月から駅前の薬局で働き始めることになってね」
 グレープフルーツをスプーンでほじくり返しながら、明るい早口で言った。ウキウキしているんだ、お母さんは。
「パート?」
「ううん。正社員。いきなり管理薬剤師だって。二十年以上ブランクあるのにやれるのかしら」
「薬剤師?」
「薬剤師の資格持ってるって、言ってなかったっけ?」
 お母さん優等生だったのよー あんたの成績が良いのは遺伝子のおかげなんだから威張っちゃだめよー と母親は歌うように続ける。そんな歌、聞きたくない。
「大学の学費も払い終わってるし、贅沢をやめれば普通に暮らせるわよ」
「俺、大学院に行くつもりなんだけど」
「何それ、知らない。就職するんじゃないの?」
「博士課程まで……」
 声が震えてる。
「それはけっこう苦しいなぁ。耕一が大学卒業したら子育て終了だと思ってたのに」
 まっとうな意見だ。二十二歳まで育ててくれたことにだって感謝すべきなのだろう。しかし人生には計画というものがある。突然「今日から貧乏」はないだろうよ。
 どんな手立ても浮かばず教室でうつむいていると、周平が声をかけてきた。
「頭抱えてどうしたの?」
「我が家は没落した」
 周平は爆発するようにギャハハハ、と笑った。
「君は何をやるにしても時代がかっているよねぇ!『姉さん。僕は、貴族です』」
「太宰治ごっこをする余裕はないんだ、マジで」
 俺は今朝の母親との会話を全て話した。
「二百万もあるなら不安になることないよ。僕の通帳には二十万しかない」
「お前は実家からの仕送りがあるじゃないか」
「七瀬のお母さんも働き始めるんでしょ?」
「あの人のことだ。『やっぱりお母さんには無理だったわ〜』なんて言って三日で辞めてくるかもしれない」
「もう少ししっかりした人に見えたけどね」
 周平は腕組みしてしばらく考えていた。
「七瀬が就職しちゃえば何の問題もない」
「嫌だっ」
 まだ全然足りないのだ。知識が。考える力が。
「大学院には行く。何がなんでも行く」
「そうなるとお金が必要だね。学費と生活費」
「奨学金をもらうのはどうだろうか」
 即座に賛成してくれると思ったのに、周平は渋い顔で首を振った。
「奨学金というと聞こえは良いけど、あれは借金だもの。修士課程までならともかく、博士課程が終わる頃にはとんでもない債務が君の肩にのしかかることになる」
「のんきにオーバードクターなんぞ出来ない」
「もちろん」
「服を売るか」
「いくらブランド品でも、中古の服はそう高く売れないと思うな。それより今あるものを大切に着て、新品を買わずに節約した方が良い」
「テレホンカード、は売れないだろうなぁ」
 携帯電話が普及したせいだ。この数年で瞬く間に必需品になった。俺は流行に乗りたくなくて意地でも買わないつもりでいるが、周平は就職活動が始まる前に自宅の電話を解約し、携帯だけを利用していた。
「作ってもらった着物、返そうか?」
「人にやったものを頼みにするほど俺は落ちぶれてないっ」
「その性格じゃ苦労しそうだね。でもそれでこそ七瀬だ」
 周平が何故か誇らしげに微笑んで、俺は泣きたくなるような、安心するような、不思議な心持ちになった。
「とりあえずバイトを始めたら」
「何もしない訳にはいかないだろうな」
 勉強や読書に使える時間が減ると思うと悔しくてならなかった。
「ホストクラブとか?」
「何でだよ!」
 周平はクスクス笑いながら言う。
「昼間は学校に来たいだろうから夜の仕事で。無駄な美貌がようやく活かせる」
「給料は良さそうだなぁ……」
 ホストとして働く自分を想像してみる。
「おばさんたちにモテる自信はあるが、他のホストと話が合わない」
「わがまま言っちゃいけないよ」
「でもなぁ……」
 孤独にはもう耐えられそうにない。周平や克巳と親しくなってしまったから。
「オカマバーは? 藤娘の写真、綺麗だったじゃないか。君は確かに二丁目で働けそうな女顔だ」
 あれは冗談だった、とのちのち周平は繰り返すことになる。しかし俺は本気で良い案だと感じてしまったのだ。
「それだ!」
「……え?」
「オカマは話が面白そうじゃないか。俺が伝統文化について熱く語っても、真面目に聞いてくれそうな気がする」
「どうだろう……」
「オカマの知り合いはいないのか」
「オカマを『男性同性愛者』の意味で使うなら僕もオカマのうちだろうけど」
「いや、もっと女っぽい奴」
 周平は首を振る。
「オカマバーで働くような人たちについての知識は、君とほとんど変わらないよ。テレビに出てるのを見るくらいで」
「オカマとゲイは隣接領域だろ? 電気工学と電子工学みたいに」
「研究してる訳じゃないもの。克くんだけで間に合ってる」
「最後はのろけで締めるんだな」
 周平と話したことで、気持ちが上向きになった。金が無くなっても、自分の中にある記憶や思考能力は俺のものだ。たとえ借金まみれになったって、これだけは誰にも盗めない。
 もともと俺が欲しいと願っているものは、手に入れるのが難しいのだ。道はさらに険しく困難になった。しかし諦めたりするものか。進め。進むことに意味がある。
 次の日、周平がレポート用紙を一枚、俺の前に置いた。
「人を募集してるオカマバーをいくつか見つけたよ」
 紙には店名と住所、一番下には簡単な地図が書いてある。
「ネット?」
 パソコンを使うのは俺より周平の方が上手い。克巳に習ったと言っていた。
「ううん。昨日、新宿の紀伊國屋へ行く用事があったから、ついでにオカマバーも回ってきた」
「求人広告でも貼ってあったのか」
「一軒一軒店に入っていって尋ねたんだよ。『フロアの求人はありますか』って」
 俺は本気で感動した。
「お前、いい奴だなぁ!」
「気付くのが遅いよね」
 周平はシャーペンの先で店名をつついた。
「この店がおすすめかな。赤鬼みたいなおじさんが出て来て丁寧に受け答えしてくれた。『あなたは金運は良いけど恋愛運はイマイチねっ でもきっといつか素敵な出会いがあるわ!』だって」
「完全に恋人いないと思われてるな」
「占いは大はずれだけど、ああいう世話好きな人がいると職場の雰囲気が悪くならないんじゃないかな」
「ああん、どうしよう。あたし、履歴書上手に書けな〜い! そもそも履歴書を買うお金がな〜い!」
「余ってるの分けてあげるから、急におネエにならないで…… 心臓に悪いよ」
 周平の指導のもと、俺は生まれて初めて履歴書を書いた。働くのだって初めてだ。プレッシャーで胃の調子がおかしかった。
「失敗したって良いんだからさ、肝試しだと思って行っておいでよ」
「お化け屋敷か」
「そうそう。イベントとして楽しんじゃうんだ」
 周平はとうの昔に大手電機企業への就職が決まっていた。知り合った当時はうすらぼんやりしていた周平が、いつの間にか俺より大人になっている。尊大に振る舞っていた自分が情けなかった。
 オカマバーではどんな人材が求められているのだろう。お客を喜ばせ、人気者になれる人。お客は何を喜ぶのか。何はともあれ、客はまずオカマが見たいのだ。ニセモノだとバレたら「金返せ」と怒り出すかもしれない。
 俺は…… あたしは本物のオカマだ。どう頑張っても男らしくなれず、注意してないと言葉や動作がつい女性的になってしまう。男として生きることを強要してくる世間に嫌気が差して、オカマバーで働こうと決めたのだ。
 世間に嫌気が差してるのだけは本当だな。

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「姉さん。僕は、貴族です」
 は、太宰治「斜陽」からの引用です。
 
posted by 柳屋文芸堂 at 00:04| 【長編小説】贋オカマと他人の恋愛 | 更新情報をチェックする