2014年10月11日

邯鄲(その1)

【邯鄲の夢(かんたんのゆめ)】
 官吏登用試験に落第した盧生という青年が、趙の邯鄲で、道士呂翁から栄華が意のままになるという不思議な枕を借りて寝たところ、次第に立身して富貴を極めたが、目覚めると、枕頭の黄粱(こうりょう)がまだ煮えないほど短い間の夢であったという故事(広辞苑より)



 とにかく勉強が好きだった。高校時代の担任(津田塾出身の、留学経験もある女性教師)は四年制大学へ行くよう強く勧めてくれた。しかし私は悩んだ末、短大に進学することに決めた。これ以上父に心配をかけたくない、というのが一番の理由だった。
 十六歳の誕生日、父は厳かにこう告げた。
「お前は結婚の時に差別されるかもしれないから、覚悟しておきなさい」
「なぜ?」
「母親がいないからだよ」
 母は私が小学生の頃に病気で亡くなり、家族の面倒は叔母の静子さんが見てくれていた。
「お母さんが亡くなったのは、私にはどうにも出来ないことじゃないの」
 私がわがままを言い過ぎて死んでしまったならともかく、早く治ってと毎日祈りながら病室に通っていたのに。泣き出したいのをこらえて微笑みを絶やさぬよう気をつけていたのに。
「本人にどうにも出来ないことでも、差別する人はするんだよ。特に就職や結婚のような人生の重大な場面でね」
 私は美人ではないし、女にしては背も高い。さらに学歴までつけてしまったら、ほとんどの男の人が私を敬遠するようになるだろう。ウーマン・リブに興味はない。なるたけ早く家庭に入って、父を安心させたかった。
 もし男に生まれていたら、私はきっと学者になっていたはずだ。一日中、そして一生、学問のことだけを考える暮らし。私に与えられた学問の時間は、たった二年。どんな人でも欲しいものを全て手に入れられる訳じゃない。自分に許された範囲で、全力を尽くそう。
 夢中になって課題の英文を訳す毎日が過ぎ、一年後期の試験が終わった頃、父の書斎に呼ばれた。
「お見合いの話が来たんだ。無理にじゃない。春子が嫌なら断っても良い」
「断るって、まず話の内容を聞かないと」
「ははは、それもそうだ」
 父はそわそわと落ち着かない様子で、机の上の書類を無駄にかき回した。
「相手は正太さんのところで働いている職人だ。井田治くん。聞いたことあるかね」
「いいえ」
 正太さんの工房では、昔ながらの手作業で和紙をすいている。若い男の人が何人かいるのは知っているけれど、誰とも話したことがない。
「手先が器用なうえに研究熱心で、相当筋が良いらしい」
「ふぅん……」
 研究熱心という言葉に、ちょっと興味がわく。
「ただ中学しか出ていない。春子ちゃんは物足りなく感じるんじゃないかと、正太さんは心配していた」
「中卒なのは構わないけど、物足りないと思う人を薦めてくるのは失礼じゃない?」
 父は目を細め、何か企むような、懐かしむような、曰く言い難い笑みを浮かべた。
「正太さんが持ってきた話じゃないんだ」
「え、じゃあ静子さん?」
「違う。本人が頼みに来た。わざわざ工場まで来て『社長さんに会わせてください』ってね」
「私と結婚したら工場を継げると勘違いしているのかしら」
 私には兄がおり、関西の大学で経営学を学んでいる。このまま気持ちが変わらなければ、兄はいずれ次の社長になるだろう。
「その説明は先にしておいた。治くんは機械ですいた紙には関心がないそうだ」
「何か、変な話だなぁ……」
 兄を毒殺してまんまと後釜に、なんて推理小説みたいな展開を考えてしまう。兄を殺されるのも困るし、利用されるのも悲しい。
「お父さんはどう思ってるの。断った方が良い?」
「いや。正太さんによると、治くんは周囲があきれるほどの堅物らしくてね。娘の結婚相手としてそう悪くないような気がしている」
 年齢から言って、お見合いの話が来るのは分かっていた。しかしいざその立場になると、心がすくんでしまう。進学先を決めるのとは微妙に違う不安だった。
「一度会ってしまったら、断りにくくなるかしら」
「そんなことはない。まずは自分の目で見てみると良い」
posted by 柳屋文芸堂 at 23:54| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする