2014年10月11日

邯鄲(その4)

 待ち合わせ場所は家の近所のバス停だった。私は白いブラウスに水色のロングスカート、暖かい日だったのでコートではなく、黒いカーディガンを羽織った。似合わないのが分かったから、お化粧はしていない。治さんはお見合いの時と同じ紺のスーツに、なぜか白い運動靴をはいていた。私が足もとを見ていると、
「この間、靴ずれでひでぇ目に遭ったから」
「あら、ごめんなさい」
 治さんはぶんぶん首を振った。並んでみると、治さんの背丈は私より頭一つ分小さい。結婚したらノミの夫婦になるのね。治さんが嫌じゃないと良いのだけど。
 デートの場所は池袋。最寄りの駅から乗り換えなしで行けるし、短大の帰りに買い物することもあったので、いくつかお店を知っていた。隣り合って電車に揺られていると、治さんの肩が何度も私に触れた。窓からの光が強く、治さんの表情はよく見えない。到着するまでの長い時間ほとんど話さなくても、前回のように気詰まりではなかった。
 池袋ではまず、欧風カレーのお店に行った。魔法のランプの形をした銀器を、治さんはじょうろのように傾けて、カレーを全部ご飯にかけた。慌てて私も同じようにする。ちまちま気取って食べるよりずっと美味しかった。
 食休みして席を立つと、治さんは先にレジへ行き、会計を済ませてくれた。店の外でお金を出そうとしたら、おびえた顔で一歩下がった。
「親方から小遣いもらってんだ。春子ちゃんに一銭でも出させたらぶん殴るって言われた」
「荒っぽいことねぇ」
 お腹がいっぱいだったのでゆっくり歩いた。白木蓮の花びらがビルの横に吹き寄せられている。
「独立したら、治さんは田舎へ帰るの?」
 結婚した場合、もちろんついて行かなければならない。自分が将来どこに住むことになるのか、気になっていた。
「帰らない。帰っても何もねぇもの」
「一生あの町で過ごすの?」
「食えるうちは」
 食えるうち。確かに手すきの和紙の商売をいつまで続けられるか、不確実だった。伝統工芸はどの分野でも縮小の一途だ。
 次の目的地である紙の専門店に着いた。ここには日本全国で作られた和紙が集められている。私は色彩と図案の美しい京都の千代紙が好きで、気に入ったものを見つけると購入し、ブックカバーにしたりしていた。最近入荷したものがあるか店員に尋ね、見本を見せてもらう。また今度と断り、消えてしまった治さんを探す。
 無地の紙の売り場にいた。私と一緒に来たことなどすっかり忘れた様子で、何枚も和紙を広げて店員に説明を求めている。時間がかかりそうね。そのまま千代紙細工が飾ってある棚へ行き、人形や小箱をじっくり眺めた。
「すみません」
 治さんは右手に紙袋を下げていた。
「正太さんからいただいたお小遣い、全部使ってしまったんじゃないの?」
 からかうように言ってみる。
「勉強のための金は別に取ってあるから」
「自分のお金?」
「毎月額を決めて、仕事に役立つものを買うようにしてる」
 何という手堅さだろう。父に気に入られた理由が分かった気がした。
 店を出て喫茶店に向かう。本を読むのにぴったりの、落ち着いた店だ。ほどよく客がいて静か過ぎないのも心地よい。
 女給さんが瀟洒なカップを二つ並べてくれた。店内には小さな音でクラシックが流れている。あら、この曲は。高校の音楽室で先輩が弾いてくれた。タイトルは、そう、ショパンの「別れの曲」……縁起でもない!
 治さんはカップにいっさい手をつけなかった。コーヒーが嫌いなのかもしれない。実を言うと、私も緑茶の方が断然好きなのだ。サバランをひと口含み、何日も考えていた質問を今しなきゃ、と勇気を奮い起こした。
「私と結婚しても、工場を継げないことは、ご存知……?」
 つい語尾が弱々しくなってしまう。
「会社はお兄さんが継ぐんだろ」
「もし、あの」
 兄を毒殺しようとしてるなら、なんて言えない。
「春子さんにこんなこと言うの悪いって知ってっけど、オレ、機械ですいた紙は」
 治さんは眉をしかめ、唇を歪めた。
「ニセモノだと思ってる。だから工場は継ぎたくない」
「私と結婚しても、何も得られないのよ。それでも良いの?」
 きっと私はすがるような目をしている。治さんは視線をそらした。
「もう充分もらった」
「え?」
 カップをわしづかみし、治さんはコーヒーを一気に飲んだ。そしてむせ返る。
「大丈夫?」
「苦ぇなぁ。何だこりゃ」
 私が笑うと、治さんも笑った。初めて見る笑顔に、胸の奥がおかしくなる。熱い? 苦しい?
「もう一つ、あの……『言えない趣味』について、話し合っておきたいの」
 治さんはハッとし、みるみる青ざめた。
「女の私の前では口に出しにくいことなのかもしれない。でももし私と添い遂げる気があるのなら」
 治さんの目をまっすぐ見つめる。
「結婚前に説明しておいて欲しいの。家庭を壊さないと約束してくれるなら…… 辛抱します」
 治さんは息の出来ない魚みたいに何度も口をパクパク開けたり閉めたりして、最後にようやくかすれた声で言った。
「朝、バス停で、春子さんを見ること」
 横に開いた大きな耳が、真っ赤になっている。
「私、治さんに会っていたの?」
「春子さんはオレのこと知らねぇから!」
「治さんは私を知っていたのね?」
「親方が、町一番の才女だって自慢してた。おかみさんも、春子さんが横文字の本を読んでるのを見たって」
「英文科だもの。英語の本くらい読むわよ」
 東京からそう遠くないのに、あの町は昔話に出てくる村と変わりないんだ。短大に入学しただけで、町一番の才女にされてしまうなんて。私のことを自慢する正太さんたちを思い浮かべ、クスクスと笑ってしまった。
「お会いしていたのに、あいさつもせずごめんなさい」
「春子さんはいつも、本を読んでた」
「そうね、本を読み始めると周りが見えなくなっちゃうの」
 偶然私を見かけて、それを嬉しく思っていてくれたんだ。言えない趣味ではなく、私に言いにくかっただけ。自惚れで椅子から浮いてしまいそうだった。
 帰りの電車は行きより混んでいた。何駅か立った後、治さんが空席を見つけ、私だけ座らせてくれた。
「今日は、春子さんの会社を悪く言ってすみませんでした」
「いいのよ。父も今の製品に満足している訳じゃないし」
 父の専門は機械工学で、だからこそ機械の限界を知っており、職人の手作業に敬意を払ってきた。正太さんに技術協力してもらい、手すきの紙に少しでも近づけられないか、常に努力している。
「今はまだ、オレたちにしか出来ねぇことがあるからいいんだ。でもいつか、機械が完璧な和紙を作るようになったら。紙だけじゃねぇ。服も、食い物も、何もかも工場からポンポン出てくるようになったら」
 治さんの視線は私を射貫いていた。しかし治さんが見ているのは私ではなく、もっと大きい、遠くの何かだ。それがはっきりと分かる。
「作る喜びを取り上げられて、オレたちは何を張り合いにして生きていくんだろう」
posted by 柳屋文芸堂 at 23:49| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする