2014年10月11日

邯鄲(その6)

 早く再び会って、治さんとお話がしたかった。学歴はなくても、深く思索しながら生きている人だと、あの日強く感じた。しかし短大の春休みが終わり、授業が始まってしまったので、私はまた予習復習に追われることになった。
 課題となる原文は一年の時より難しい。先生方は熱意を持って英文学の本質を伝えようとしてくれている。面白い、はずなのに、集中出来ない。辞書を片手に英文を前にしても、単語の意味がバラバラにほどけて内容が頭に入ってこない。真っ白いノートのページに治さんの顔が浮かぶ。電車で隣に座った時の、肩がぶつかる感触がよみがえる。
 会いたい。治さんに会いたい。そう思えば思うほど勉強ははかどらなくなり、自由時間が減り、デートが出来ない。悪循環だ。
 治さんは朝、バス停にいる私を時々見かけると話していた。本から何度顔を上げても、治さんが前を通ったりしない。この町のどこかにはいるんだ。私は本をかばんにしまって、周囲をぐるりと見回した。バス停のある橋。その先の小さな商店。雑木林。反対側の曇った空。私の家。橋の下を流れる小川。
 その川岸の草むらに、治さんが立っていた。和紙の材料を探しているのかしら。喜びで全身が熱くなるのを感じながら、私は大きく手を振った。
「治さん! 治さーん!」
 手を振り返してくれると信じていたのに、治さんは後ろを向いて大股で逃げてしまった。どうして? 目の前が暗くなる。ちょうどその時バスが来たので、起きたことの意味を理解出来ないまま、そこを離れるよりほかなかった。
 このお見合いは、私さえ断らなければ結婚に至るのだと、勝手に思っていた。でもあのデートの日に、治さんは考えを変えたのかもしれない。こんな大女に見下ろされて一生を送るのはごめんだと。当たり前だ。男の人はみな、小さくて可愛らしい女性が好きなのだから。
 あるいは、私は何か治さんの気に障ることを言ってしまったのかもしれない。すぐに思い当たって血の気が引いた。
「正太さんからいただいたお小遣い、全部使ってしまったんじゃないの?」
 治さんはそう多くないであろうお給金を節約し、自分の作る物をより良くしようと努めている。それなのに、親のすねをかじっている私が、軽々しく馬鹿にするようなことを言ってしまって。こんな生意気な女とはやっていけないと、失望したのではないか。
 私を嫌いになった?
 頭の中でつぶやくだけで涙がこぼれる。短大の同級生はみな私より美しく、相談したらみじめな気持ちになりそうで、誰にも打ち明けられなかった。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:48| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする