2014年10月11日

邯鄲(その7)

 次の朝、バス停に向かい、そこが昨日までとはまるで違った場所になっているのに気づき、愕然とした。石の台の付いた金属製の錆びた時刻表。その前に、病院へ通う佐山さんちのおじいさんが立っている。草木の緑。小川の穏やかな水音。いつもと同じ風景。でも何かが決定的に違う。母を亡くした日にさえ私を優しく包んでくれた空と大地が、敵国からの侵入者を見るように私を拒んでいる。ここはお前の生きるべき世界ではないと。
 欄干から身を乗り出し彼岸を覗いても、治さんはいない。最初から分かっていた。ここは治さんのいない世界。
 バスの席に座り、自分の頭が狂い始めているのに気づく。変わってしまったのは外界ではなく、私自身だ。学校にはどうにかたどり着いたけれど、もう授業どころではなかった。指名されてしどろもどろになる私を、先生は叱らずに心配した。級友にあれこれ尋ねられるのが嫌で、休み時間は食事も取らずお手洗いにこもって泣いていた。
 帰宅後、静子さんが用意してくれた夕食を食べる。味がしない。それが心の底から申し訳なく、美味しい、と言って無理に笑った。
 治さんに会いたい。……いいえ、会わなければいけない。この大切な結び目を、ほどいてしまう訳にはいかないのだ。私は玄関を忍び出て暗い夜道に飛び出した。こんな時間に一人で外を出歩いたら、静子さんにどれほど怒られるだろう。その前に人けのない場所で愚連隊にでも出くわしたら、大変なことになる。それでも私は行かなければいけない。橋の向こうへ。街灯のない雑木林を走り抜け、治さんがいる世界へ。
 何があっても、誰に何を言われても、これは私の人生だ。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:47| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする