2014年10月11日

邯鄲(その8)

 作業場にはまだ灯りがついていた。入り口に立った私に気づいたのは、頬がニキビで凸凹した、大柄な男の人だった。ニカッと笑って目を輝かせ、指をくわえ、ピュゥーッと甲高い口笛を鳴らす。その音の先に、作業着姿の治さんがいた。
 目覚まし時計のベルを聞いたようにハッとする。治さんは目を丸くして私を見ている。耳が真っ赤だ。囃す声に押し出され、外に出てきた。二人とも無言のまま、雑木林の方に歩き出す。灯りの見えなくなったところで立ち止まった。
「学校などやめてしまって、明日にでも治さんと結婚したい!」
 何てはしたない振る舞いだろう。治さんに好かれる女になりたいのに、自分が自分じゃないみたいに、思い通りに動けない。苦しくて涙がこぼれる。
「治さんに会えないのが、辛いの。結婚すれば、離ればなれにならずに済むから。ずっと一緒にいられるから……」
「オレも一日、春子さんを見なかったら、手も頭も借り物みてぇにバカになって、今日は親方に叱られっぱなしだったんだ。滅茶苦茶に」
 治さんは私を見上げ、 真剣な顔をくしゃっと崩した。心の休まる笑顔だった。
「明日から毎日、学校へ行く春子さんを見送るよ。そうすれば二人とも元気になるんじゃねぇか」
「そうね。ありがとう、治さん。ありがとう……」
 治さんは家まで送ってくれた。幸い父と静子さんには見つからず、何事もなかったように自分の部屋に戻り、眠った。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:46| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする