2014年10月11日

邯鄲(その10)

「短大まで出していただき、ありがとうございました」
 卒業式の後、袴姿から着替えずに父の書斎へ行った。卒業証書と成績表を渡す。
「頑張ったようだね」
「英語の勉強は好きだから、苦労した気はしないの。これで授業を受けられなくなってしまうのが寂しい」
「なに、静子先生の花嫁講座がある」
「そうね。式までに家事のコツを教わっておかないと」
 父は成績表から顔を上げ、私を見た。
「治くんから婿に入りたいと言われたよ」
「えっ」
 私は一人娘ではないのだから、婿を取る必要はない。結納もこちらがお嫁に行く形式だった。私の混乱をやわらげるように、父は楽しげに微笑んだ。
「その理由が可笑しくてね、
『井田より隅田の方が風流だから』
 と言うんだ」
「それほど違う苗字とも思えないけど」
 この一年、井田春子になれるのを心待ちにしていた。まあ、隅田春子のままでいられるのも、嬉しいかもしれない。
「いっそ隅田川に改名しようかと冗談を言ったら『あれは悲しい話だから隅田で良い』と返された」
 短大の授業で能の「隅田川」を元にしたイギリスのオペラが取り上げられ、治さんにあらすじを語ったことがあった。それを覚えていてくれたんだ。
「治さんは日本の伝統について広く知識を吸収しているのだと思います。和紙は様々な場所で使われるから」
 父は両手を組み、真剣な目つきで私を見る。
「物足りないどころじゃない。うかうかしていると、お前が物足りないと言われてしまうよ」
「はい」
 私が伝えた話のおかげで、治さんが褒められている。こういうのを内助の功と言うのだろうか。知らず口元がほころびる。
「社会に出た後の学問は基本、独学だ。むろん人から教わることも出来るが、『誰に』『何を』尋ねるかは自分で決めなければいけない」
「はい」
「これから子どもでも産まれたら、目の回るような忙しさになるだろう。それでも学ぼうとする気持ちを忘れないように。春子には出来るはずだ」
 卒業は終わりではなく始まりなのだと気づき、胸が熱くなる。私は父に向かって深く頭を下げた。
「女の私に学問を与えていただき、ありがとうございます」
posted by 柳屋文芸堂 at 23:44| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする