2014年10月11日

邯鄲(その11)

 四月に近所の神社で式を挙げることになっていた。ほんの内々のもので、披露宴はしない。父が事業をやっているため、私と治さんの知り合いより父の会社の関係者を多く呼ぶことになってしまう。大切な門出を騒々しいものにしたくない。私の思いを、父も理解してくれた。
 当日、桜吹雪になれば素敵だと思って日程を組んだのに、今年の開花は遅く、まだ五分咲きだ。紫色の固いつぼみ。
 今日のために伸ばしていた髪を島田に結い上げ、顔を真っ白に塗る特別なお化粧をしてもらう。またおかめになったら角隠しで顔も隠したいと悶々としていたけれど、鏡の中の私は別人みたいだった。一生に一度の特別な日なのだから、今日だけは自分を綺麗だと勘違いしたって許されるだろう。
 白無垢の着付けが終わると、感極まって泣きそうになった。いけない! おしろいが溶けてしまう。佐山さんちのネギ! 何を言っているのか分からないバスの運転手さん! 私は必死に日常の物事を思い浮かべ、涙を引っ込めた。
 治さんはうちの家紋を染め抜いた黒紋付袴で私を待っていてくれた。ニコッと微笑むとちゃんと耳が赤くなったので嬉しくなる。
「三三九度のお酒は口をつけるだけで飲まなくて良いのよ」
「オレ緊張してガボガボ飲んでぶっ倒れるかもしんね」
「そうなったら介抱してあげる」
 始まるまで不安そうにしていた割に、式の間治さんは落ち着いて堂々としていた。それより私の方が誰かの鼻をすする音に気を取られ、いくつか所作を度忘れした。そのたび巫女さんが次の動作を教えてくれたので助かった。
 式を終えて社殿から退出すると、兄がつかつかとこちらへやって来る。花婿と同じ黒紋付袴。父のを借りたのだろう。
「遠いところ、来てくれてありがとう」
 大学入学後、兄はほとんど家に寄り付かない。盆暮れにさえ帰って来ない時があるのだ。
「お前、本当にあれで良いのかよ?」
「新居のこと?」
 私たちがこれから住むのは、古い小さな平屋だ。治さんが独立したら作業場付きの家を新築しようと、父は今から楽しそうに図面を引いたりしている。
「違う! 旦那だよ、お前の」
 咄嗟に治さんの方を向く。良かった、父と正太さんに話しかけられて、兄の言葉は聞こえなかったはずだ。私は兄と治さんを引き離すように歩き始める。
「中卒の職人だって言うじゃないか」
「治さんは立派な方です!」
「おまけにチビだし、ネズミみたいな顔して」
「治さんが小さいんじゃなく、私が大き過ぎるの! 勝手に比較して貶さないでください」
 兄は父と治さんの方をにらんで舌打ちした。
「どうやって取り入ったんだよ」
「治さんは工場を乗っ取ろうとしている訳じゃ……」
「そうじゃない。あんなもん欲しけりゃくれてやる」
 兄は一瞬黙り、下唇を突き出してつぶやいた。
「春子は山の手の奥様になると思っていたのに」
 懐かしい表情。得意の数学で満点を逃した時、よくあんな顔をしたものだ。兄はそのまま身をひるがえし、鳥居をくぐって神社から出ていってしまった。
 結婚式で言われたのには驚いたけれど、兄が父ほど治さんを評価しないのは予想していた。人間の価値を中身ではなく、冠で判断するところがあるから。
 おめでとう、と一言も言ってくれなかった。それでも悲しいというより可笑しくて笑ってしまう。山の手の奥様。東京の学校に通えば、どんなおかめでもお金持ちに見初められると思っているのだろうか。
 治さんのそばに戻ろうと振り返ると、静子さんが顔に手ぬぐいを当ててうつむいている。
「どうしたの?」
「感動して泣いてるに決まってるじゃない!」
 顔を上げると、涙と鼻水がするする流れ、慌てて手ぬぐいでこする。
「ハンケチじゃ間に合わなくて。お式の間も音が響いちゃってごめんなさい」
「誰か風邪でも引いてるのかと思った」
 感激するにしても、ちょっと大袈裟じゃないかしら。遠くにお嫁に行くのではなく、お婿さんをもらって近所で新生活を始めるだけなのに。結婚とはそんな大変な出来事なのかと、呆気に取られる。
「私、怖かったの。春子ちゃんがあんまり熱心に英語を勉強してるから、小野洋子さんみたいにアメリカへ行って、外国人と結婚しちゃうんじゃないかって……」
 こらえ切れず噴き出し、白無垢を着ているのを忘れて大声で笑ってしまった。私が短大の英文科に通ったことで、みんなこれほど思いを巡らすとは。奥様。国際結婚。町一番の才女。
 私はただ、英語の勉強が好きだっただけ。異国の言葉の向こうに、自分と同じ人間の心を読み取るのが面白くて仕方なかった。きっと世界中に静子さんやお兄ちゃんがいる。お父さんと正太さんも。私と治さんも。佐山さんも。お母さんも。
「春子ちゃんを手放さずに済んで、兄さんがどれほどホッとしてるか。普段は偉そうにしてるけど、ものすごい寂しがり屋なのよ」
 父の方を見ると、治さんのお母さんに何かお土産のようなものを渡しているところだった。父の半分ほどの背を、何度も曲げてお辞儀するお母さん。
「今日は兄さん、春子ちゃんと話さないつもりよ」
「そうなの?」
「泣き顔を見せたくないんでしょ。みっともないものね」
 静子さんはようやく泣きやんで、いつもの茶目っ気のある笑顔になった。
「末永くお幸せに」
「ありがとう」
posted by 柳屋文芸堂 at 23:43| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする