2014年10月11日

邯鄲(その19)

 まだ肌寒い早春の朝、母は病室で息を引き取った。父親が庭から切ってきた沈丁花の花が、花瓶に活けられもせずに甘い芳香を放っている。消毒薬の臭いではなく春の花の香りの中で亡くなったことが、僕の救いになった。
 喪服を取りに東京の家に帰ると、咲から電話がかかってきた。
「お兄ちゃん、喪主やってくれない?」
「えっ、お父さんじゃないの?」
「順番だとそうなんだけどさー ショックがひどくて無理そう。生ける屍って感じ」
「ぼーっとしちゃってるの?」
「そう。食べない、飲まない、しゃべらない。現在我が家は屍二名よ」
 咲はゲラゲラと笑う。
「喪主って何すればいいの?」
「事務的なことは全部私がやるからさ、会葬者へのあいさつだけして。まあ名ばかり喪主ってとこだね」
「本日は来てくださってありがとうございますとか、そんな感じ?」
「そうそう。村上春樹ばりの気の利いた比喩を使いまくって、若い娘たちをキャーキャー言わせてやってよ」
「そんな葬式があるか!」
 実家へ戻る前に店に寄った。
「一人営業続きで申し訳ない」
「いいの。それより残念だったね、お母さん」
 メグはぽたぽた涙をこぼし、エプロンでぬぐった。
「臨時休業にしてお通夜とお葬式に来る?」
「うーん……」
 メグはエプロンのはじっこを指で引っぱりながらしばらく考えていた。
「店を休んでお葬式に行くのと、店を営業し続けるの、お母さんはどっちを喜ぶかな?」
「営業する方だね」
 体調を崩す前、母はよくこの店に来てくれた。そうしてメグの料理や、僕が厳選した本の並ぶ本棚を絶賛した。自分のせいで店が休みになったら、たった二日であっても母は心を痛めるだろう。
「あたしは定休日にお線香あげに行くよ。息子が経営する店の従業員として」
 メグは寂しそうだった。体が男でなかったら、メグは長男の嫁なのだ。どうするのが正解なんだろう。
 メグの気持ちを心配しながら、僕はメグの提案に従うことにした。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:35| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする