2014年10月11日

邯鄲(その28)

「春子さんにも食べさせたかった」
 父はうなだれたままつぶやいた。
「お店に来てくれた時、お寿司は出さなかったね」
「『ねじまき鳥のスパゲティ』がお気に入りだった」
「春樹カフェなんてやめて今すぐ寿司屋になりなよ!」
「そういう訳にも……」
 父は手で顔をおおい、しくしくと泣き始めた。
「オレがもっと早く今くらい稼げるようになってたら、春子さんにも苦労かけずに済んだんだ」
「苦労ったって、普通に暮らしてたじゃん」
「好きな本を買って読んでたし」
「夜逃げもしなかった」
 父は重箱をつかんでのぞき込む。
「こういう美味ぇもんもたらふく食べさせられたはずなんだ」
「お母さんの料理だって美味しかったじゃん」
「メグほどではないけど」
「そこはのろけるんだ」
「そりゃあね」
 父親にはどうも、僕たちの言葉が全く届いていないようだった。重箱の一点、おそらく過去のどこか一点を見つめ、間違いを正そうとしている。
 間違いって何だろう。
「春子さんは、オレと結婚したりしちゃいけなかったんだ」
「え?」
 父は作業着のズボンに爪を立てて引っ掻いた。
「パイロットか、外交官か分かんねぇけど、もっと学のある男の所に嫁に行って、裕福な暮らしをするはずだったんだ。それなのに」
 ぽろぽろ落ちた涙が作業着に染みをつくる。
「気がついたらオレと結婚してて」
「え」
「子どもまで産まれてて」
「おめーが作ったんだろ!」
 下品なツッコミを入れたのはもちろん咲だ。念のため。
「オレはたった一言口がきければそれで良かった。塩まいて追い返されるの覚悟で、社長にお願いしに行ったんだ。『春子さんに会わせてください』」
 父と母はお見合い結婚だと聞いている。周りの人間が適当に紹介したのだと、これまで思っていたのだが。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:24| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする