2014年10月11日

邯鄲(その30)

 メグは優しく語りかけた。
「ひとりの人を一途に愛し続けることって、誰にでも出来ることじゃないのよ。一つの仕事を真面目にやり遂げることだって」
「そうだよ、お父さんは自分で考えるよりずっとすごいんだってば!」
 まるで父親励まし大会だ。でもその効果はあったようだ。父は母が亡くなった後初めて、僕たちを見た。
「そんなこと言ってな、お母さんは外人の客と、英語でしゃべったりしてたんだぞ! 外国からの注文も全部オレの分かるようにしてくれて、横文字の手紙を書いて…… そんなすげぇことが出来るのに、オレたちの飯炊きに追われて、幸せなもんか!」
「悪いけど、それ全部私も出来るからね」
 英文学科卒の咲が言う。
「ちなみに僕も」
 僕は英文学専攻ではないけれど、英語は得意だった。時々アメリカの小説を原書で読むし、外国人のお客とのコミュニケーションにもほとんど困らない。
「今時、英語くらい誰だって使えるよねぇ?」
 父は、この国ではもう日本語が通じなくなったのか、と恐れおののく顔で、僕と咲を眺めた。そして助けを求めてすがるように、メグを見つめる。
「あたしが英語なんて話せる訳ないじゃない! こんなインテリ源ちゃんほっといて、飲も飲も、お父さん。おれたちゃこの腕一本で生きてきたんだーっ」
 メグの男言葉はやわらかく、可愛らしかった。父はメグが注いだ吟醸酒をくいっと飲み、そのまま昏睡した。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:22| 【中編小説】邯鄲 | 更新情報をチェックする