2010年11月29日

大賢者大森賢五郎(その2)

二、祝福されているから大丈夫

「ありがとうございます。」
 シャケおにぎりと缶コーヒーを買った背広のおじさんを送り出してしまうと、コンビニには店員二人の他誰もいなくなった。客が途絶えた所を見計らい、女の店員はレジの下に置いてある小さな金庫を開け、百円玉が五十枚重なっている棒を取り出した。
「優子さん、猫は見つかった?」
「んー、まだだよ。」
「そう。早く見つかると良いね。」
 背の高い男の店員は、優子がレジを開け、百円玉の棒を崩し入れるのを見ていたが、すぐに自分の仕事を思い出し、ビニールの手提げ袋の束を、レジ近くのひもにくくり付けた。
「昨日、ともなりさんに言われた通り占い師さんの所に行ってみたんだよ。」
「あ、行ってみたんだ。どうだった?」
「本当に占い師だったからびっくりしちゃったよ。前、ママに買い物頼まれて、そごうの地下に行く途中見かけた事はあったんだけど、何しろすっごい怪しいからさ、ともなりさんに言われなければ絶対声なんてかけなかったよ。」
 優子は占い師の風貌を思い出し、けらけらと笑った。ともなりもつられて笑顔を作った。
「それで、何て言われた?」
「それがね……」
 その時、スーツの女性が店に入って来た。彼女は「CHANEL PARIS」と白抜きで書かれた黒い紙袋を左肩にかけ、飲み物の詰まった冷蔵棚の方に大股で進んで行った。優子とともなりは「だるまさんがころんだ」の要領で押し黙り、女性の様子をちらりとうかがった。彼女はほとんど悩まずにミネラルウオーターを選び出し、素早くレジを済ませて立ち去った。
「ありがとうございます。」
 ともなりがそう言い終らない内に、優子は大声を上げた。
「ねえ、見た? 今の人の持ってたシャネルの紙袋! 大きかったねえ。」
「そう? よく見てなかった。」
「もうっ! ともなりさんでもシャネルは知っているよね?」
 ともなりはブランドや有名人について疎く、優子にしょっちゅうこんな質問をされては、この分野への無知をさらしていた。この間も「NIKE」を「ニケ」、「アニエス ベー」を「アゲイン エッチ」と読み間違えて、優子に呆れられたばかりだ。
「ああ、知ってる、知ってる。マリー・アントワネットが使ってて有名になった奴でしょ?」
 優子の頭は一瞬真っ白になった。
「……ひょっとして、マリリン・モンローの事を言いたいの?」
「ああ、なんかその人だったかも。」
「もー、ともなりさんはあ〜」
 優子が眉間にしわを寄せるのを楽しむように、ともなりは笑った。
「あんなに大きい紙袋を持ってるって事は、シャネルで大きな買い物をしたって事だよ! カバンかなあ、スーツかなあ。あ、もしかしたら今のスーツ、シャネルのだったのかも。マーク見えなかったけど。」
「分からないよ。シャネルのお店で紙袋だけ買ったのかもしれない。」
「えっ? 紙袋だけ売ってるの?」
「そんなの僕が知るわけない。でもまあ百五十円とかで紙袋売ってたら便利だよね。」
「そんなのあるかなあ。でも分からないよね。私だってシャネルのお店なんて行った事ないもの。」
 ブランドの話をする度、優子は悲しそうな顔をする。悲しくなるのならそんなもの気にしなければ良いのに、姑が嫁の欠点を指摘するみたいに目ざとく、お客が身に付けているブランド品を見つけてしまう。
「もっとお金持ちになりたいなあ。一年に十億とか稼げなくても良いから、せめて普通のOLくらいのお給料が欲しい。」
「もうすぐ働けるようになるよ。優子さん、前よりずっと元気になったじゃない。最近はトイレに駆け込む事もなくなったし。」
「嫌だなあ、ともなりさん。恥ずかしいよ。」
 優子は小声でそう言い、顔を赤くした。色白なため、気持ちが全部顔色に出てしまう。
「せっかくこんな元気になれたのに、あと一歩って所なのに、ジルベールがいなくなっちゃうんだもの。気位の高い子だから、なつくとか、仲良しとか、そんなんじゃなかったけど、子供の頃から一緒に暮らして来たんだもの。いるといないじゃ大違いよ。」
 少しだけ下唇を突き出し、小さく震える優子を見ていると可哀相で、ともなりは栗色のやわらかな髪を撫でた。優子は可愛い。去年死んだおばあさんの次くらいに可愛い。おばあさんがいなくなった後、ともなりは体の半分が失われてしまったような、激しい虚脱感に襲われた。猫がいなくなって、優子も同じような気持ちでいるのだろう。本当に可哀相だ。
「猫は何歳になるの?」
「今年で十五歳。もう寿命かもねって、ママは言うんだけど、今まで一度も外に出た事がないのに、急にいなくなっちゃうなんておかしいよ。冷たい水も飲めないのに、生きていけるのかなあ。」
「冷たい水を飲まずに、何飲んでたの?」
「ぬるま湯と、温めたミルク。」
「優子さんに負けない箱入りなんだ。」
 ともなりは優子の頭のてっぺんを、ぽんぽんと軽くたたいた。目じりをそっと人差し指でぬぐいながら、優子は微笑んだ。
「ともなりさんは優しいね。背も高いし、顔だってかっこいいんだから、おしゃれすればきっともてるよ。」
「僕もおしゃれするお金なんてないし。」
 優子は真面目な顔になって、ため息をついた。猫とお金の悩みを吐き出すために。
「それでさっきの話の続きだけど、占い師は何て言ってたの?」
「そうそう、それが。」
 優子はすぐさま、あっと声を上げた。そして店に入って来た女性を指差した。ジーパンの上に白い長袖Tシャツというこざっぱりした格好のその客は、優子と目を合わせにっこり笑った。優子はちょこんと会釈した後、ともなりに耳打ちした。
「あの人だよ、昨日の占い師。」
 占い師はまず雑誌コーナーに向かい、週刊文春を手に取った。目次を開き目当てのページを見つけると、長い時間をかけてそこの文章を読んだ。そして肩を震わせてクツクツ笑ってから、満足顔でページを閉じ、元の場所に戻した。
「随分堂々とした立ち読みだね。」
「さすがは占い師。」
「関係ないよ、ともなりさん。」
 しめ縄並にがぶっとい、一本に結ったおさげ髪を揺らしながら、占い師は冷凍棚の前に移動した。棚のガラスに指を突き、全てのアイスを眺め回して散々迷った挙句にハーゲンダッツの抹茶味を取り出し、じっと見つめ、元の場所に戻した。
「買わないのか。」
「優柔不断だねえ。」
 という二人の声が聞こえたのか、占い師はくるっと身をひるがえすと、今度は最初から決まっていたような素早さで、カニパンと牛乳パック(給食サイズ)を手に持った。この二つは元の場所に戻さずに、右手にカニパン、左手に牛乳を握り締めて、占い師は店内をぐるぐる歩き始めた。
「何か探しているのかな?」
「あ、止まった。」
 占い師がぴたりと立ち止まったのは、コンドームの棚の前だった。それから彼女は身じろぎ一つせずに、コンドームの箱を凝視した。穴が開く程強い視線で。
「買うのかなあ。」
「顔見知りがいる店で買わないでしょう、普通。」
「でも私、一回しゃべっただけだし、気にしないのかも。」
 しばらくの間占い師はその形のまま固まっていたが、魂がどこかから帰って来たみたいに、ふっと意識を取り戻し、視線を生理用品の棚に移した。そしてその中から適当な物を選ぶと、レジに持って来た。
 占い師は優子に笑いかけながら言った。
「昨日はごめんね、曖昧な事しか教えられなくて。これから探しに行って来るから、安心して仕事をしてね。」
「ううん、良いの。それより……」
 優子はともなりに聞こえないよう占い師の耳に口を寄せた。
「生理で辛いんだったら、今日探しに行かなくても良いよ。」
「え? あ、これの事?」
 占い師はともなりがいる事を全く気にしない様子で、生理用品を高くかかげた。
「立ち読みしちゃったし、パンと牛乳だけじゃ申し訳ないから買っただけ。今は生理じゃないの。ついコンドームを買っちゃいそうになったんだけどさ、次いつ使うか分からないからねえ。」
 かっかっかっか、と大きな笑い声を上げ、占い師は指に引っかけたビニール袋をくるりくるりと二回転させた。
「じゃ、行って来ます! お二人ともお仕事頑張って下さい。」
 占い師が深々とお辞儀をするので、優子とともなりもつられて頭を下げた。二人が顔を上げた時、占い師の姿はもう見えなかった。
「あの人、地味な洋服着ていても怪しいんだね。」
「でも良い人そうだったじゃない。必要ない物まで買ってくれたし。」
「見ず知らずの私がちょっと猫の相談しただけなのに、探しに行ってくれるんだものね。」
「あれ? 占いの結果はどうだったの? 歩いて探すのだったら占う必要なんてないじゃないか。」
「それが、本当にあやふやな事しか言わないの。」
 コンビニの店名がプリントされた、オレンジ色のエプロンの肩ひもを指でもてあそびながら、優子は続けた。
「『小さなボロっちい家が見える。平屋建てで、周りは木や伸び放題の雑草に囲まれているから、緑のもやの上に水色の三角屋根が乗っかっている感じ。家にも草木にも不釣り合いな白いパラボラアンテナが目印。赤い花がいっぱい咲いてる。とても綺麗。』」
「その家に猫がいるの?」
「ううん、そうじゃないんだって。そこは猫を見つけるきっかけになる場所で、今行ってみても空っぽだろう、って。」
「それじゃあ今猫はどうしているの?」
「それは分からない。分からないんだけど、って言った後の占い師さんの言葉がおかしいの。
『あなたは祝福されているから、あなたのペルシャ猫もきっと大丈夫だ。』
って。」
「祝福、ねえ。」
「私、祝福されているなんて感じた事ないのに。むしろその反対なんじゃないかって、毎日思っているのに。でもね、私、ジルベールがペルシャ猫だなんて一言も言わなかったんだよ。」
「へえ、じゃあ占い師として少しは見込みがあるんだ。」
 優子はこくんとうなずいた。
「だからちょっと信じてあげたいと思ったの。その後、はっきり居場所を教えられないから、お金はいらない、本当にごめんって、何度も謝られちゃってさ、逆に悪い事しちゃったみたい。」
 二人は占い師が店内をうろうろしていた時の様子を思い出し、微笑み合った。
「そう言えばさ」
 ともなりは優子の方は見ずに、店内を眺めながら言った。占い師の次の客は、まだ来ない。川口駅東口のコンビニに比べて、西口のこの店はいつも空いているのだ。
「優子さんが今日ここにいるって、占い師に教えたの?」
 優子は顔から笑みを消し、首を横に振った。
「教えてない。店の名前も、レジに立つ時間や曜日も、大体がコンビニで働いている事すら言わなかった。」
 ともなりは客が置いていったレシートを拾い集めてから、何か大いなる力に感心するように、腕を組んだ。
「意外にすごい人なんじゃない?」
「意外に、ね。」
 昼飯を買う人々でごった返す、一日一回だけのラッシュが、もうすぐ始まろうとしていた。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:08| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする