2010年11月29日

大賢者大森賢五郎(その3)

三、カラマーゾフの兄弟

「ない……やっぱり、ない。」
 川口駅西口周辺はマンションばかりがニョキニョキと高くそびえて、店は少なく、昼間だというのに人影もまばらだ。そごう、丸井、大型書店などが建ち並び、それなりに開けている東口とは対照的な風景が、どこまでも続いている。
 私はコンビニに行って昨日の女の子に会った後、駅から真っ直ぐに伸びている大通りを自転車で走ってみた。大きな鉄工所の先にひときわ目立つ高層マンションがあり、その隣にはそこだけ三十年前のままみたいな古い木造の家があったけれど、二階建てで、私が思い浮かべた家とは「ボロい」という共通点しかなかった。
 一通り道沿いのマンションを見上げてから、川口駅の方に戻り、今度は右寄りの道路を行ってみた。そこは狭い二車線で、歩道も車道も自転車が走るには窮屈なのだが、交通量、特にバスやトラックのような大型車の行き交う量が思いの他多くて、意味もなく何度か危険な目に遭ってしまった。この道に高層マンションはなく、自動車を展示・販売している店や、地味な料理店、あとは古くも新しくもない一戸建てとアパートが、みしみしと隙間なく詰まっている。途中、右に向かう太い道があったので曲がってみると、京浜東北線の線路に突き当たり、上り・下り電車のすれ違う轟音とそばにあったお菓子工場の甘ったるい香りにくらくらした。
 目的の家がないようなので、来た道をたどり再び川口駅に戻った。次は線路沿いを調べてみようと、ひっきりなしに通る電車を金網越しに眺めながら、西川口駅の方に向かって進んでいった。
「あっ、行き止まりなんだ。」
 てっきり川口駅から西川口駅まで線路沿いの道が途切れず続いているとばかり思っていたのだが、薄っぺらい形の不思議なマンションが道をさえぎっていた。仕方がないのでマンション前の細い道を走っていくと、商店街、いや、「かつて商店街だった場所」が現れた。
 和菓子屋、金物屋、洋品店……どの店も、昔、多分川口が「キューポラのある街」に描かれていたような鋳物の工場街だった頃、栄えていたのだろう。今でも他の街に比べれば工場は多いし、市の広報も川口市を「鋳物と植木の街」として宣伝しているけれど、本当の事を言えば、ここは「新興住宅とギャンブルと風俗の街」だ。景気の良い時は、工場の職人達が稼いだお金でレースに興じ、勝った儲けをソープに使う、という「川口経済の流れ」があったらしい。今はそんな職人も少なくなったから、ギャンブルや風俗好きな人々が、市外からもやって来るのだろう。
 工場をつぶして作った住宅地に押し寄せた新しい住人達は、オートレース場やソープランドの放つ卑俗な雰囲気に驚く。驚いたからといって引っ越す訳にはいかないし、都内へ出るのに便利なのは確かだから、住み続ける。そしてじきに慣れてしまう。この街を形作る暗い連鎖になんて気付かずに、シャボリ、シャボリと不幸の水を蹴り上げて。
 ここの商店街に不幸の水は感じられない。どこもかしこもすっかり寂れて、光も闇も枯れ果てた、といった風情だ。看板だけでシャッターを下ろした店が七割、残りの三割はきちんと営業しているようなのだが、客の姿がまるで見えない。街灯にぶら下がるやけに新しい赤い旗が、さらにわびしさを強調している。
「甘いなあ〜、もう」
 先程突き当たったお菓子工場に再び着いた。濃い水色の四角い箱のような建物で、バターと砂糖を混ぜて焦がしたような香りが、そこら一帯に充満している。私は女にしては珍しく甘い物が苦手なので、逃げるように先を急いだ。
 少し行くと、小さなお稲荷さんがあった。土地は狭いのだが、何重にもなっている鳥居と石の狐がぎゅっと一所にまとまっていて、ほこらからはなかなかに強い力が感じられた。私は狐や神様に嫌われたりしないよう、そっと全体を見つめてから、てのひらを合わせてしばらく拝んだ。
 ここがまだ商店街として機能していた時代、客や店の人間の多くが日常の中で、こんな風にお稲荷さんを頼りにしていたのだろう。鋳物工場は火を使うから、その安全を祈る人々もいたに違いない。人でも神様でも「頼りにされる」というのは素晴らしい事だ。私もいつかそんな占い師になれれば良いのだけれど、このままではからっきし駄目だ。ようやくつかんだ最初の仕事だというのに、いまだ家一軒、猫一匹見つけられずにいる。
 お稲荷さんにお辞儀をし、自転車を漕ぎ始めると、錆びたトタン板に覆われた鋳物工場が左手に見えた。初めて来たのに何故か懐かしく感じながら通り過ぎると、次に銭湯の煙突が青空に突き出ているのが目に入った。夕方になれば、そこから黒い煙がゆっくりのぼるのだろう。
「ここは昭和三十年代かっ?」
 駄菓子屋の木枠の入り口の横を通過しながら、そう突っ込みたい衝動に駆られた。しかし街相手ではこちらも無力なので、大人しく走っていくと、Y字路に出た。右へ進めば西川口のソープランド街に行ってしまうのは分かっていたから、左を選んだ。
「へえ、こんな所に図書館があるんだ。」
 川口市立横曽根図書館。私は普段、市役所の近くにある中央図書館を利用するのだが、本を借り出すための券は市内共通なのでここでも使える。ちょうど帰りに本屋か図書館に寄りたいと考えていた所だったから、初めて見るその建物の中に入ってみた。
 まず二階に上がり占いの本のコーナーで「手相入門」「タロット占い」の二冊を手に取った。手相の方は駅前にいる「手相の勉強をしている人々」に馬鹿にされないため、タロット占いは出来れば何となく格好良さそうだから、読んでみようと思った。机と椅子だけというのも潔くてなかなか気に入っているのだけれど、あそこにぼんやり座っているだけでは、塚沢冷機工業に勤めているのとあまり変わらないような気がする。今にも、
「また沼田さんぼーっとしてる! 起きてる? 生きてる?」
 という元同僚の女の子達の声が聞こえてきそうだ。
 そんな私でも、タロット占いの神秘的な絵柄のカードをしゃらしゃらかき混ぜたりしていれば、きっとどこかから、
「よっ、占い師! 沼田屋!」
 というかけ声がかかるに違いない。
 私は「素敵な西洋風占い師」になった自分を想像し、ちょっぴりニヤニヤしながら一階に下りた。そして新着図書コーナーでお気に入り作家の新作を運良く見つけ、文芸コーナーでは予約をしなければ絶対読めないような人気作家の作品を偶然発見した。どちらも恋愛小説だ。
(これ、リクエスト用紙を出そうか迷っていたんだよね〜 こんなに早く借りられるなんて嬉しいなあ。)
貸し出しカウンターに行く途中、岩波少年文庫が本棚丸々一本分並んでいたので、魔法使いの出て来るお話を一冊選んだ。「占い」二冊、「恋愛」二冊、「魔法」一冊、計五冊。職員のお兄さんは、ピ、ピ、ピ、と赤い光を当てて本に振られた番号を読み取っていく。
「ありがとうございます。」
 これだけで二週間、これらの本が自分の物になる! 私は図書館が大好きだ。
(大人の文庫は二階にあったな。)
 私は用もないのに二階の文庫コーナーへ向かった。いや、用があると言えばあるのだ。図書館に来たら必ずする、儀式のようなもの。
(あった、あった。)
 外国文学の文庫の中から「カラマーゾフの兄弟」を見つけ、そっとその背を撫でた。

 「三番目の彼氏」は今時珍しいバリバリの文学青年だった。一人暮らしをしている小さな部屋の壁一面にびっしりと文庫本が並んでいて、さらに驚く事には、一冊文庫本を抜き出すと、奥にもう一冊文庫本が見える。つまり全ての本棚が二重構造になっているから、蔵書は表に出ている本の倍あるのだ。
「これでも随分実家に置いて来たんだけどね。ここにあるのは本当に気に入った本だけだよ。」
 読み返す回数の多い本を表の取り出しやすい位置に、その頻度の低い本は取りにくい位置や奥にと、彼なりの所蔵方法が厳しく決まっているようだった。
 夏目漱石、太宰治、三島由紀夫……名前を知っている作家はそれくらいだったけれど、どれも普段の私なら決して読まないような暗い、難しそうな小説である点が共通していた。ある時、彼の気持ちを理解するためにはこういう本も読まなくっちゃと、なるべく薄い本を選び――それは「ヴィヨンの妻」という短編集だった――借りて帰った。
 読んでみてびっくりした。
「何なんだ、このダメ男はっ!」
 これでもか、これでもかと、全編にダメ男が出て来る。そのダメぶりにも呆れたが、真面目でおとなしいサラリーマンとして、社会で平凡に暮らしている彼の内部に、こんなキザな性格破綻者が住んでいるのかと思うと、何とも言えない気持ちになった。
 彼はぱっと見キザでも性格破綻者でもなかった。でも確かにもうそろそろ世間擦れしても良い年齢だと言うのに、文学青年特有の暗さと青さが一向に抜けなかった。こんな本ばかり読んでいるからそうなったのか、それとももともとそういう性格だからこんな本ばかり読んでいるのか、どっちが先なのかは分からない。分からないけれど、彼の向こう側にはいつも同じ風景が見えた。
 濃いスミレ色の空には、星も、月さえもない。地平線の彼方まで続く平らな砂地にはもちろん植物の姿などなくて、ただ彼だけが独り湖のほとりに立っている。かすかに銀色の光を放つ砂を踏みしめて、墨より黒い湖水を、音もなく打ち寄せるその波を、ただじっと、見ている。
 ここには夜しかない。
 夕焼けの赤に染まった事がかつてあったのか、日の出の輝きに満たされる事がいつかあるのか、誰も知らない。私が知っているのは、あれが虚無の湖だという事だけだ。
 私は虚無について詳しい事は知らない。ただたまに虚無を感じる事はある。例えば歯医者さんで歯を削られた時、そのぽっかりと空いた歯の穴に、虚無が入り込む。別に歯医者さんが意地悪して薬品と一緒に虚無を入れてしまうわけではない。体の一部が永久に損なわれ、もう二度と元には戻らないという感覚が、死に向かって毎日壊れていくしかない自分という存在をはっきり意識させ、虚無を連れて来る。
 私は痛いのも嫌だし、削る音も嫌いだけど、虚無を知る修行だと思って歯医者に通う。
 私の虚無は、歯に詰め物をして治療が終わりさえすれば、それがどんなものだったかも忘れてしまうような、ちっぽけなものだ。だから彼の向こう側に何であんな巨大な虚無の湖が生まれてしまったのか、私には分からなかった。彼が今までの人生の中で味わい続けて来た苦痛や悲しみを全て調べ上げれば、何かしらの原因を突き止められるのかもしれない。強く言って聞き出したり、私の「得意技」を使って全部見てしまうのも、やろうと思えば出来る。でも私はしなかった。たとえ鍵が付いていなくても人の日記を勝手に読んだりしてはいけない。誰かと「共にある」ためには、それが一番大事だと思っていたから。
 私は彼の心の中を盗み見る代わりに、虚無の湖を見つめる彼の背中に向かって何度も呼びかけた。けれど、彼は振り向いてくれなかった。現実の世界では私の他愛ない冗談に、さも楽しげな笑顔を作って見せたりするくせに、あの虚無の湖のある世界において、私は無力だった。 

 彼の一番のお気に入りはロシア文学で、中でもドストエフスキーの小説には特別の愛着があるようだった。上・下巻やら上・中・下巻だのに分けてもまだ分厚い文庫本が、ご飯を食べながらでも手が届く位置にずらりと並んでいた。カバーが擦り切れる程読み込まれたそれらの本には、きっと彼の精神を理解するために重要な何かが描かれているのだろう。いつか読まなければ、読まなければと強迫されるように思っていたのだが、結局読み始める事すら出来なかった。長くて難しそうだというのも敬遠する一因ではあったけれど、何よりも読む気を失せさせたのは、
「苦悩する青年が沢山出て来るのだろうなあ。」
 という予感だった。苦悩や絶望に囚われた男達なんて、現実だけでお腹いっぱいだったのだ。「三番目の彼氏」だけでなく「一番目の彼氏」も「二番目の彼氏」だって、この点では似たようなものだったから。
 大体何で「苦悩する青年」は「苦悩する青年」の物語を読みたがるのだろう。「苦悩する青年」は「苦悩を解決する青年」の物語を読むべきではないのか。そんな物語なんてどこにもないのかもしれないけど。
 彼の家にあったドストエフスキーの文庫、特に長い「カラマーゾフの兄弟」を眺めながら、いつもそんな事を考えていた。彼は自分の心を理解してもらうのを最初から諦めているみたいに、小説を読むよう勧めもせず、悲しそうな瞳を細めて微笑んだ。
 私はドストエフスキーの本を一冊も読まないままに彼と別れてしまったのを、相当後悔しているのだろう。図書館や本屋に行く度、足が勝手に外国文学の文庫の場所に向かってしまう。そうして必ず「カラマーゾフの兄弟」を見つけ、読みもしないのに、その背を撫でる。それが彼の体か精神の一部であるかのように、あの湖の世界の砂に似た、銀と藍を混ぜたような背表紙を、人差し指と中指で、優しく……
「占い師さん。」
 突然何の前触れもなく男のささやき声が耳のすぐそばで聞こえたものだから、私は叫び声を前歯の裏っかわ辺りでどうにか押し殺し、振り向いた。
「あ、あ、さっきの……」
 そのやわらかな声の主は、昨日の女の子と一緒にコンビニで働いていたお兄ちゃんだった。こんな所で私を見つけたのが嬉しかったのか、にこにこと笑みを浮かべて満足そうに立っている。私の方はと言えば、驚いたのと、何か恥ずかしい淫らな光景を見られたようなばつの悪さから、ぐんぐんと勢い良く頭に血が上っていくのが分かった。
「大丈夫? 顔が赤いよ。」
 コンビニのお兄ちゃんは私が「カラマーゾフの兄弟」の背表紙を撫でていた事なんて気にしていないし、もちろん私がその時何を思っていたかなんて知りっこないのだから、こんなに動揺したら「勘ぐってくれ」と自分で言っているようなものだ。何か聞かれたりしたらどうしよう、とますます顔と頭を熱くしていると、お兄ちゃんは何も言わずに私の腕を軽くつかみ、私を図書館の外まで連れて行った。そして植え込みを囲っているコンクリートに私を座らせ、
「ここなら風がある。」
 と言いながら私の額に手を当てた。
「熱はないみたいだ。図書館の中はちょっと暑かったから、のぼせたんだね。」
 涼しい場所で私を落ち着かせ、都合の良い誤解をしてみせる。お兄ちゃんの対応は「全部お見通しなんじゃないのか?」とこっちが逆に勘ぐりたくなる程の、完璧なものだった。これくらい出来なければコンビニの店員なんて務まらないのだろうか。
「……牛乳飲んでも良いかしら。ほら、頭も冷やしたいし。」
「お昼まだなんだね。僕もまだなんだ。」
 私が牛乳とカニパンを取り出すのを見て、お兄ちゃんは自分の手にあるコンビニの店名がプリントされたビニール袋を揺らしてみせた。
(うまく誤魔化せたのかな?)
 私の不安になんて全く気付かないような様子で、お兄ちゃんは私の横に座ってピーナツバターの挟まったパンを食べ始めた。
「猫、見つかった?」
「まだ。いや、見つからないのは分かっていたんだけど、一応下見だけでもしておこうと思って。」
「家を探しているの?」
「あの子から聞いたのね。そうなの、ボロ家。花の綺麗な。」
「猫がいてもいなくても、行ってみたいな、その家。」
「私も。」
 ふと、この人は占い師というものをどう思っているのか心配になった。あるのかないのか分からないような家の話を聞いて、「寝言は寝てから言えよ」と言いたいのをぐっと我慢しているんじゃないだろうか。もしかしたら頭のおかしい女だと哀れに感じて信じている振りをしてくれているのかもしれない。馬鹿にされるならともかく、哀れまれるのは嫌だな、何となく。
 でも何をされたって文句は言えない。猫も家も見つからない限り、私はただのインチキ占い師と変わらないのだから。
「家はこの近所なの?」
「うん、多分ここのそばなんだけど……」
「そうじゃなくて、占い師さんの家。」
「ああ私のね。私は市役所の方に住んでるの。だからこの図書館に来るのは初めて。あなたは?」
「僕の家も東口側だよ。でもどの図書館も遠くてね。ここの図書館は仕事帰りに寄りやすいからたまに来る。占い師さんは本借りた?」
 お兄ちゃんの目が「見せて、見せて」の色に光ったものだから、仕方なしに私は借りた本を全部出した。すると一番見られたくなかった「手相入門」「タロット占い」の二冊をお兄ちゃんは情け容赦無く引っ張り上げた。
「占いの本だ! 研究熱心なんだね。」
「えっと、それ……実は私、占い師になったばっかりなのよ。だからちょっと勉強しようと借りてみたんだあ。」
 無理に笑ってみても、顔が引きつる。こんなに格好悪い事ってあるだろうか。医者が「家庭の医学」を頼りに診察や手術をしているのを見とがめられるようなものだ。
「この小さい本は?」
「魔法使いの出て来るお話で、児童書なんだけど、面白そうかなと思って借りたの。ファンタジーブームになる前から好きだったんだ、剣と魔法の世界。」
「可愛い趣味だね。」
 こんなインチキ臭さ大爆発で、この猫探しの仕事を続けさせてもらえるのだろうか。疑いなど一つも抱いていないようなお兄ちゃんの穏やかな微笑みがますます気がかりで、私は再び頭を熱くしないために牛乳をストローでちゅるちゅる飲んだ。
「残りの二つは小説かな?」
「そう。」
「表紙が凝ってるね、色使いも繊細で。」
「どっちも女性向けの恋愛小説だからじゃないかな。私、難しい小説が読めないのよ。本は好きだけど、いつも子供向けと恋愛ものと、あとはエッセイくらいしか読まない。」
「コンビニで文春を読んでいたよね。」
「ああ、あれもエッセイ。毎週どこかで立ち読みするの。」
「たまには買ってね。」
 お兄ちゃんがわざと困ったような顔を作った時、誰のものか分からない強い感情か何かが、私の心をかすめていった。ラジオに一瞬入る雑音みたいなものだから、正体は全くつかめない。でも知ってる。何だっけ? 昔の男に関係する事。「最初の彼氏」? 「二番目の彼氏」? 「三番目の彼氏」? 三人全て? それとも……
「僕はこれを借りたんだ。」
 ぼーっとしている私の前にお兄ちゃんは新書を五冊突き出した。三冊が仏教、一冊が神道、もう一冊は宗教学の本だった。その表紙の寺や仏像や神社の写真を眺めて、私はつい叫んでしまった。
「難しそう!」
「そんな事ないよ。専門知識のない人に分かりやすく解説するのが新書の目的なんだから。難しかったら僕も読めない。」
「宗教が好きなの?」
「最近仏教にはまっててね。ねえ知ってる? ブッダはミルク粥を食べて悟りを開いたんだよ。」
「ブッダって、仏様?」
「そうそう、仏教を始めた人。彼は苦行しているうちにはらぺこになっちゃってね、こんな事ではいかん、と考えを改めた所にスジャータっていう女の子がミルク粥を差し入れしたんだ。それですっかり元気になって悟りを開いたらしいよ。」
「へえ、スジャータってそういう意味なの。」
「僕は仏教思想よりこのミルク粥が気になってね。二千五百年前のインド料理だよ。どんな味だったんだろう、まずければ悟る気力も萎えただろうから、大層美味しいものだったんじゃなかろうか、なんて考えながら仏教の本を読む。僕も勉強し始めたばかりだから、こんなものだよ。」
「神道と宗教学の本は?」
「仏教を知る参考のために借りてみた。占い師さんは難しくない本が好きみたいだけど、僕は説明的な文章が好きなんだ。」
「物語っぽいのは読まないの?」
「ほとんど。あ、でも一つ特別好きな小説がある。」
 そう言ってお兄ちゃんは自分のリュックサックからボロボロの文庫本を取り出した。
「志賀直哉の短編集。高校の課題図書でね、最初はいやいや読み進めたけど、この中の『城の崎にて』が気に入って、いまだに持ち歩いている。」
 お兄ちゃんの開いたページを覗き込むと、漢字をたっぷり使った改行の少ない文章に目がチカチカした。
「私は無理だわ、これ。」
 私の情けない感想にお兄ちゃんは笑った。
「そんな事ない。とっても短い話だよ。志賀直哉は若い頃電車に跳ねられて大怪我するんだ。その療養のために行った城崎温泉で、蜂の死骸と、死にかけているネズミを見た後、悪気もなく投げた石でイモリを殺してしまう。」
「それから?」
「それでおしまい。」
「それだけなの?」
「あらすじはね。最後に偶然死んだ動物達と偶然死ななかった自分を重ね合わせて、

『生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった。それほどに差はないような気がした。』

 なんて事を言って終わる。でね、僕が驚いたのはここ。」
 お兄ちゃんは文庫本の終わりの辺りにある、志賀直哉の年譜を開いて指差した。
「『死に対する親しみが起っていた。』なんて書いておきながら、八十八歳まで生きているんだよ。随分図々しいと思わない?」
 文庫本を借りてぱらぱらとページをめくると、解説に「戦後、直哉の評価は低落するが、直哉自身は文壇的な毀誉褒貶に動じることなく、家族・友人・多くの信奉者に囲まれて、円満で穏やかな晩年を送った。」とあった。
「いい人生ね。」
「僕は苦悩や絶望に耐え切れず自殺してしまうような人より、こういうしたたかな人間が好きだ。」
 「苦悩」「絶望」という言葉にはっとしてお兄ちゃんを見上げると、私の方は見ずに遠くへ目をやって、自分に言い聞かせるみたいに軽くうなずいていた。
「一緒に住んでいたおばあさんが去年死んだんだけど、試しに呼んでみた坊さんが一目でヤブだと分かったから、すぐに追い返して僕がお経の代わりに『城の崎にて』を朗読したんだ。」
「ヤブ? ヤブ医者じゃなくて『ヤブ坊主』?」
「そう、仏教を真面目に学んだ事のない、あったとしても必要に迫られて表面的に知識をさらっただけの、エセ仏教徒だよ。『お金をもらうためだけに来ました』と顔に書いてあった。ヤブ医者程の実害がないから世間は『ヤブ坊主』を野放しにしているけど、一人っきりで僕を育ててくれた大切なおばあさんのなきがらの前にそんな奴を座らせるのは、僕が許さない。」
「お葬式に来た人達はびっくりしていたでしょう。」
「葬式と言っても、弔問客なんて誰もいなかったから。二人だけで暮らしていたんだ。子供の頃から、ずっと。」
 そんな密接な間柄の人を亡くすのは、どんな気持ちなのか。私も彼氏と別れる時は毎回つらかったけれど、相手が死んでしまったわけではないし、それとはちょっと違う悲しみだろう。親と兄弟と恋人と友達がいっぺんに死んでしまうようなものか。
 私は「偶然死んだおばあさん」の前で「偶然死ななかったお兄ちゃん」が一人声を張り上げている所を想像した。死がおばあさんを他者にしてしまうのを認められず、むしろその死に親しみを感じている、その表情を。
 お兄ちゃんは我慢しているのか、今現在、あまり強い感情は感じられない。時間や仏教の本や志賀直哉が、お兄ちゃんを助けてくれたのだろうか。
「そんな事があったせいもあって、占い師さんには猫探しを頑張って欲しいんだ。猫がいなくなって、あの子も僕と同じように苦しい毎日を送っていると思うと可哀相でね。」
 私は話に夢中になっていて猫を探さなければいけないのを、すっかり忘れていた。エセ占い師め、と追い返されたくはなかったので、自信があるような笑顔を作って、背筋をぴんと伸ばしてみせた。
「ねえ、一つ聞いて良い? 何であの子、あんなに不幸なの?」
「すごい質問だね。」
「だって不思議なんだもの。裕福なお家で優しいパパとママに甘やかされてすくすく育って、確かに一回、闇に足をつかまれるような嫌な病気をしているけど、それももう治っているはずよ。あの子祝福されている。」
「何に?」
「『普通教』の神様に。顔も、性格も、能力も、健康状態も、経済状況も『普通よりやや上』、偏差値で言うなら六十くらいを保っている。それって恵まれているんじゃないかしら。なのに自分が幸福だという実感をほとんど持っていない。猫がいなくなったせいだけじゃないよ。」
「『普通』という価値観で生きる人達も大変なんじゃないかな。いつも自分と誰かを比べていなければならないからね。幸・不幸の判断だって簡単には出来ない。」
 そう言ってお兄ちゃんは、信用するに足る人物か確かめるみたいに私の瞳をじっと見すえた。私にやましい事なんて……ちょっとしかない。それだって「日がな一日昔の男を思い出してぼんやり暮らしている」というような、他人にとってはどうでも良いくだらない後ろ暗さだ。
 覗き込んで、全部見ればいい。本当の意味で恥ずかしい事など、私の中に何一つない。
 お兄ちゃんはふっと顔の緊張を解いて言った。
「あなたになら、教えてしまって構わないだろうな。あの子、短大を出てすぐにお父さんのコネで有名な大企業に就職したんだけど、ストレスで体を壊して辞めてしまったんだ。ひどい下痢がずっと続いて、半年間家を出られなかったらしい。コンビニでバイトを始めたのは病状が少し落ち着いてからだけど、それでも最初のうちはしょっちゅうトイレに駆け込んでいたよ。」
「その病気はもう治っている。」
 私は彼女が通っていた病院、病名、その病気の原因と重さも全て見えていた。それがとっくの昔に完治していて、あとは彼女が自分で生み出している不安を取り除けば問題ない、という事も。
「体が元通りになっても、一度感じてしまった不安はなかなか消えない。急に具合が悪くなるんじゃないかと怖くて、いまだに一人では川口駅周辺から離れられないんだよ。」
「『アルプスの少女ハイジ』のクララだわね。」
「え?」
「何でもない。えっと、あの子は……優子さん、あなたはともなりさん、で良いのよね?」
 お兄ちゃん、いや「ともなりさん」は目を見開いて、私をまじまじと見た。
「そうやって近眼の人が遠くを見る時みたいに目を細めると、全部見えちゃうんだ。」
「今そんな事してた?」
 名前を聞き忘れていたので適当に読み取ってしまったのだが、面倒でも言葉で聞けば良かった。名前はもちろん過去も未来も現在考えている事も、見ようと思えば全部見えてしまう、という事がばれたら、インチキと思われるより余程悪い。そんな危険な「個人情報漏洩女」と仲良くなる馬鹿はいないだろう。
 私は顔の皮を両手で縦横に引っ張ってみせて、必死に誤魔化した。
「良いよ、そんな変な顔してはぐらかそうとしなくても。ねえ、僕がコンビニで働き始める前にしていた仕事、当てられる?」
「そりゃあ……」
 次の瞬間、生まれて初めての経験が私を襲った。ともなりさんと私の間にある物理的・現実的距離が奇妙な力で引き伸ばされて、あるはずのない七つの扉がガシャン、ガシャンと音立てて閉じていく感覚。こんなにそばにいるのに、七枚の分厚い鉄の板が私達を隔てている。
 読めない。どんなに強く見てやろうと思っても、無が、単なる真っ暗闇が、私に押し付けられる。
 ともなりさんを見上げた私の顔は、軽く青ざめていたと思う。ちょっと意地悪そうな彼の笑みに、その色が映っていたから。
「結婚詐欺師、かなっ?」
 険悪な雰囲気になるのは避けたかった。冗談っぽく、にっこり微笑みながらそう言ってみた。それでもまるっきりでたらめという訳ではなかった。全力を尽くしてつかまえた、ともなりさんの過去のしっぽ。
「近い!」
 私の気持ちを察したように、彼も明るく答えた。
「そうだ忘れてた、これ。」
 ともなりさんはコンビニのビニール袋からハーゲンダッツの抹茶味アイスクリームを取り出した。
「食べたそうだったから、買っておいたよ。」
「えっ……」
 この意味分かるよね? と言うように首を傾げながら、アイスを私に手渡した。
「それから言っておくけど、世の中の人みんながあなたみたいに、愛欲中心に生きている訳じゃないんだよ。占い師さん、いや、沼田きみ子さん。」

 私は不安になった。
 この人と仲良くなれないんじゃないか、というんじゃなくて。
 その全く反対の心配。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:03| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする