2010年11月29日

大賢者大森賢五郎(その4)

四、ダメ男との愛欲の日々

『食べたそうだったから、買っておいたよ。』
 それはどういう意味なんだろう? 冷蔵庫に入れて再び冷やし固めたハーゲンダッツの抹茶味アイスクリームを食べながら考えた。
 あの日、ともなりさんは偶然私を見つけたのだとばかり思っていた。しかしアイスのようなすぐに溶けてしまう物を『買っておいた』という事は、最初から私と会うつもりだったのだ。何のため? 私の力や人となりを調べたかったのか。本当に優子さんの猫を探し当てられるのかどうかを。
 大体何で私が図書館にいると分かったのだろう。名前もいつの間にか読み取られていた。私と同じような能力を持っていれば簡単だが、もしそうなら自分で猫を探し出せば良いのに。前の仕事をわざとらしく隠したりして、ともなりさんの行動はいかにも不可解だ。
 もう一つ大きな疑問がある。私の甘いもの嫌いまでは見抜けなかったのか、それとも知っていて故意にアイスを買って来たのか。前者ならば未熟者、後者だったら根性の悪い奴、という事になる。
「う〜っ、甘いっ! どっちにしても迷惑だ〜」
 コンビニでアイスを眺めていたのは自分で食べたかったからではない。私の愛した男達が、三人そろって甘党だったのだ。レストランでは「チョコレートパフェ」やら「特大ショートケーキ」だの見るだけでめまいのしそうなデザートを、パクパクと嬉しそうに食べていた。そしてスーパーやコンビニに寄ると、必ずアイスを買って帰った。もちろん私は甘いものなんて見るのも嫌なのだが、
「きみ子ちゃん、アーンして」
 などと言われるとつい口を開けてしまい、放り込まれた甘く冷たいかたまりを溶かしながら、色々な意味で後悔したものだ。食べたくもない甘いものを口にしてしまったという事だけでなく、男に要求されると何でも受け入れてしまう自分のだらしない性格についても。
 今住んでいるこのアパートだって「最初の彼氏」の
「街に出ても食ってヤッて寝るだけなのに、レストランやホテルは金がかかり過ぎる。どうにかしろ。」
 という勝手な望みを叶えるため、鉄工所を経営している伯父さんに頼んで従業員用の部屋を格安で貸してもらったのだ。
 「最初の彼氏」は実に困った男だった。何故我慢して付き合っていたのか自分でも理解に苦しむ。私も彼も十八歳、若かったと言えばそれまでだ。しかし何にでも当たり散らすあの性格は、きっと二十七歳になった今でも変わっていないはずだ。この数年連絡を取っていないから確認出来ないけれど、あの頃は大学受験の失敗で粉々になったプライドをどうにか保つため、会う度に私を蔑み馬鹿にした。彼にとっては「難解なもの」だけが素晴らしく、それ以外には全く価値を感じていなかった。だから子供っぽい本ばかり読み、大学に行きたいなんてこれっぽっちも考えなかった私のような人間は、慰み者として使うのにちょうど良かったのだろう。
 私が勉強嫌いだったのには理由がある。
「見えるはずのないものを見、聞こえるはずのないものを聞く」この能力は、物心つく前から私に備わっていた。今は必要な時だけ使うようにしているけれど、子供の頃は力の加減が分からずに、こちらの意図と関係なくあらゆる物事を見たり聞いたりしてしまった。いつもニコニコ笑っている親戚のおばさんの本当の気持ち。元気そうに歩いている近所のおじさんが一週間後に死んでしまう事……
 勉強に関してもそうだった。算数は計算方法を覚えなくても自然に答えが出て来てしまうし、漢字テストでは書き取り練習をサボっても、回答欄に正しい文字が浮き上がって見えてしまう。最初のうちはみんな私と同じような力を持っていると信じていたから、何故テストで×印をもらう人がいるのか、ちっとも解せなかった。
 次第に満点ばかり取り続けると担任の教師が不審がると分かり始め、同時に周りの生徒は自分と全く違うやり方でテストに臨んでいるのだと知った。それでも「テスト問題を普通に解く方法」が上手くつかめなかったので、出来の悪い男子の汚い答案を透視し「正しい間違え方」を研究したりして、程好い点数を取るよう努力するようになった。
「目立たないように」
 幼い私はそれを何より大事にしていた。善きに付け悪しきに付け「普通」から少しでも外れたものに対する人々の憎悪たるやただ事ではない。きっとみんな「自分と違う人間」が怖いのだ。他人の心を読めない人達は、自分と他人がどれだけ違い、どれだけ同じなのか確かめられない。だから、
「確認出来ないけれど、同じように感じ、考え、判断しているのだろう」
 と信じる事でどうにか心穏やかに暮らしていける。その基準を掻き乱すような事件に出くわすと、「普通」の側の人間達は結託して異端をもみ消そうとする。
 優等生や劣等生を嘲笑う級友達の心を毎日聞かされていた私は、悲しくなるくらいそれらの事情を心得ていた。隠れるように生きなければ危険にさらされる。学校とは、社会とは恐ろしい所だと、いつもビクビクしていた。
 そんな風に奇っ怪な天賦の才を持て余す私が、唯一許されるような気持ちになれたのは、物語の中に描かれる「剣と魔法の世界」においてだけだった。そこでは魔女でさえ、正義のために戦う主人公の敵役として、圧倒的な風格を持って存在している。
 私は生まれる場所を誤ったのだ。ここではないどこか、魔法や超能力が当たり前のように使われる異世界なら、もっと堂々と日々を過ごせるはずだ。ファンタジー小説を読む度そう思いながらも、人間の裏表を知り尽くしてしまったせいでひどく大人びていた私は、全てを諦め、覚悟していた。

 他のどこでもない、ここ。
 地球の、ことさら排他的な文化を持つ日本という国の、埼玉県川口市で。
 他の誰でもない、自分。
 おかしな才能を持っているにも関わらず、何もかも不器用にしか行えない私、として。
 
 死んでしまうその日までの長いような短いような時間を、どうにかやりくりしていかなければならないのだ。
 力の制御を覚え、普通にテストを受けられるようになったのは、高校二年の終わり近くだった。と言っても今さらまともに勉強する気になんてなれなかったから、学力の足りない分を「得意技」で補うようにして、程々の点数を取り続けた。多少の罪悪感はあったけれど、「平均よりやや上」を狙う事ばかりに心を砕いて来た私には、勉強にどんな意味や価値があり、将来何の役に立つのか、まるで分からなかったのだ。だからここでちょこっと「いかさま」を働いたって、どこに影響が出るでなし、別に構わないや、と思っていた。
 それでもさすがに大学受験や就職試験にこの能力を使うのはためらわれた。やろうと思えば東大の医学部にトップで入学する事も可能だけれど、それはあまりに不自然だし、そうまでして高校卒業後も学校に通いたいとは思わなかった。
「公務員になりなさい。一生安泰だよ。市役所に勤めている○○さんちの奥さんを見てごらん。いっつも綺麗にお化粧して、悩みなんて一つもないような顔しているじゃないの。仕事やお金に困らないから、ああしていられるんだよ。」
 小さな工場の経営者の妻として苦労していた母親は、何度か私にそう言い聞かせた。その気持ちは痛い程理解出来ても、公務員試験で「ずる」をしたりしたら逮捕されそうで怖かったし、長期間同じ職場に縛られて、うちの母親のような人達にねたまれるのも面倒だった。
 大学入試も公務員試験も受けずに、近所の、それも入社試験のないような小さな会社に就職しよう。私は単純にそう決めた。この世で生活していくためには、どんな仕事に就くにせよ働くのが当然だと思っていたから。
 高校生の私が「お金を稼ぐ」意味を正しく把握していたか定かではない。ただ、闇雲に「勉強しろ」という教師の小言より、「働かざる者食うべからず」という格言の方が飲み込みやすかったのだ。私が勉強をほっぽり出した理由は、本当にそれだけだった。
 「最初の彼氏」と付き合い始めたのは高校三年、ちょうど最終的な進路決定の時期だった。ほとんど消去法のようなやり方で簡単に進むべき道を選んだ私と違い、彼は巨大な苦悩の渦にはまり込んでいた。大して成績が良い訳でもないのに、大学進学を目指していたのがその原因だ。何故潔く断念して就職組に入らないのか奇妙に感じ、つい全部見てしまったのだが、学歴信仰を持つ両親に育てられた彼にとって、大学に行かない、という選択肢は許されなかったのだ。
 有名大学を出なければ人にあらず、というような思想を恥ずかしげもなく振りかざすお父さんとお母さんは、大層御立派なのかと思いきや、どちらも高校すらまともに出てはいなかった。おそらく、自分達が味わい続けた苦しみを息子には経験させまいという愛情が、彼の自由を奪ったのだ。
 思春期前までは親の言う通り勉強していたので、彼はなかなか優秀な生徒だった。しかし高校受験の頃に迷いが生じた。
「学校の勉強は本当の学問じゃない。受験なんてくだらないイベントだ。」
 そう思った途端見る見る成績が落ち、進学校ではない私の母校に入学するはめになった。廊下ですれ違う彼の心からは、
「俺はこんなレベルの低い高校にいるべきじゃない。周りの馬鹿な連中とは違う人間なんだ。」
 という呪いのような声が絶えず聞こえて来た。親の狭い考えに反抗し、学校の勉強や受験は否定しても、その中で得られた過去の栄光を忘れられはしなかったのだ。
 自分が受けた屈辱を子供に晴らさせようとする親はよくいるし、公務員になれと勧める私の母親にも似た所があるだろう。しかし大概の親は娘や息子が聞く耳持たないのを知っているから、それ程真剣に子供を束縛したりしない。
 幼い頃から集団の中で勝つ事を求められ、他人を見下さなければ自分の存在意義を見出せない彼の苦悩は根深かった。
「大学に合格したいなら、素直に努力すれば良いのに。」
 私は何度かそう言いそうになって慌ててやめた。彼も私と同様に勉強の意味や価値が分からなかったのだ。将来特にやりたい職業もなく、大学受験の目的は常に漠然としており、しかも胸中に去来するあらゆる思いが受験勉強への集中を妨げた。そうして実力もないのに自尊心ばかりが強くなっていく。
 彼を束縛しているのは最早両親ではなく、彼自身だったのだ。
 思春期や青春時代などというものは闇深きものと決まっているが、大抵は夜明け前の空のようなもので、明るい未来や希望につながっている。けれど彼の闇からは一生を台無しにしそうな予感がプンプンと香り立ち、十代の暗さに飽き足りない私は激しく引き付けられた。予知能力を存分に発揮して偶然を装えば、孤独な男と親しくなるのはさして難しくない。
 彼に向けた私の愛情はよこしまだったろうか。でも、単なる同情とは違っていたし、
「へっへっへ、不幸な男め。どんどん不幸になってしまえ〜」
 と加虐的な喜びに浸っていたのでもない。私も一応彼の幸せを願っていた。己の中身を空っぽであると認め、こんがらがった精神の糸がほぐれますように。そしていつの日か、自分や他人や世界へのいら立ちや不満が消え去りますように、と。
 最善を尽くそう。たとえそんな日が絶対に来ないと知っていても。
 浪人中彼は予想通り私をはけ口にし、その度私は大声で泣いた。悲しいばかりでちっとも楽しくなかった上に、優子さんと同じく心労から体調まで崩したが、自ら進んで離れたいとは思わなかった。どうしようもない執着心に身を任せ、愛憎渦巻く泥沼の中へ二人一緒に沈み込んでいくのが、恋愛の醍醐味なのかと勘違いしていたのだ。
 先にギブアップしたのは彼の方だった。彼は女々しくシクシクと泣きながら、別れよう、と言った。それから私を傷付けてしまうのがどれだけ辛かったかを述べ、最後に、
「きみ子ちゃんにはもっと良い人が見つかるよ。」
 と付け加えた。
 そんなの百も承知だ。私はあんたが良い人だから付き合ったんじゃない。あんたがダメ男だから惚れたんだ。
 ……と言ったらまた殴られそうだったので、何も言わずに私も泣いた。泣き納めよろしく、豪快に。

(どうにかして幸せにしてあげられなかったのかなあ。)
 慰み者やはけ口でも構わない。「そばにいる」というその事が少しでも救いになればと望んでいた。しかし彼は蔑み傷付けなければ他者と交われない自分を誰より憎んでいたから、私が何度「愛している」と伝えても信じようとしなかった。私の存在は彼の苦しみを増やしはしても、決して癒しはしなかったのだ。
 悔しい思いも色々したし、彼には何も与えられなかったけれど、私にとっては学ぶ所の多い経験だった。まず、世界に違和感を抱きながら不器用に生きる人は、私以外にも沢山いると気付いた。彼の中に埋め込まれた根拠のない信念は、私に生まれつき備わっている変な力と似ている気がした。それを持つ本人を生きにくくさせる、という意味で。
 もう一つ、自分が愛欲に溺れがちな人間であると分かったのも重要だ。勉強や仕事には一切熱を入れられないのに、色恋沙汰に関しては、蹴られ、卑しめられて病気になろうと、どこまででもついて行こうとしてしまう。悲劇的な結末が見えていても夢中になれるのは恋愛だけなのだろう。
 ともかく彼のおかげで自分が特別な人間などではなく、恋に没頭出来さえすれば満足する単純な女でしかないと知った。そうしてようやく「他人に自分を合わせなければ」という強迫観念から解放されたのだ。
「へえ、バッハの曲をやるんだ。でも『主よ、人の望みの喜びよ』はやらないのね。」
 掻き混ぜてドロドロにしたアイスクリームをすすりながら市の広報をめくると、今日の六時半から川口駅西口の音楽ホールで、パイプオルガンの無料演奏会があるという知らせが目に入った。詳細は書かれていなかったけれど、「リリア・プロムナード・コンサート」という小さい文字から、演奏曲がさらさらと流れ出て見えた。
 彼はクラシックを愛していた。いや、本当に好きだったのか分からない。ポップスは馬鹿が聴く音楽だと決め付けていたし、
「インテリたるものこういう難解な音楽に親しまなければ。」
 という妙な偏見に駆り立てられて、無理に聴いていただけかもしれない。彼の部屋に遊びに行くと、暗くて重くて長ったらしい交響曲が必ずかかっていた。私があからさまに眉間にしわを寄せると、彼は軽蔑し切った顔で、ふん、と笑うのだ。私はいつも彼の隙を見て教会音楽のCDに換えてしまった。
(神様、私も彼もクリスチャンではないですが、どうか川口までやって来て、この愚かな男をお助け下さい。遠路はるばる異教徒の家まで行ってられるか、とお怒りになるのも当然です。でも、神様と呼ばれているんでしょ? それくらいしたって良いじゃない!)
 彼の家で聴ける音楽の中では、バッハが一番好きだった。無神論者の彼の許にも神の御加護がありそうだから。
「『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』……」
 何だろう? 誰の声だろう。私の愛した男達が、こちらにおいでと呼んでいるのだろうか。アイスのカップをゴミ箱に放り込み、見えない糸に引っ張られるようにして、取るものも取りあえず私は家を出た。
 自転車を飛ばし京浜東北線の陸橋を越え、音楽ホール「リリア」に着くと、そこで待っていたのは昔の彼氏などではなかった。
「占い師さん!」
 モスグリーンのワンピースに純白モヘアのカーディガン、という姿の優子さんが、ふわふわと栗色の髪を揺らして手を振った。
(あの曲名は昔の男の妄想から目を覚まして、ちったあ占いの事も考えろ、って意味だったのね。)

 昔の男の思い出にふける余り、猫の事なんて頭の片隅にすら上らなかったのを申し訳なく感じて平謝りに謝ると、優子さんは、気にしないで、と微笑んでくれた。
「私は猫探しを頼んだんじゃなくて、猫がどこにいるか占ってもらいたかっただけなんだから。」
「そっか。何が何でも探し出さなきゃ、って思ってたわ。」
「占いはちゃんとしてくれたじゃない。『大丈夫だ』って。」
 演奏会が終わった後、私達はリリアのそばにあるスパゲッティ屋に入った。内装がオシャレな分、値段もちょっと高めなため、川口市民には馴染みにくくお客は少なめ、というような店だ。
「アーリョ・オーリョ・ペペロンチーノにしようっと。」
「私はカルボナーラ。ペペロンチーノだと、ニンニク臭くなって占いの仕事に差し支えない?」 
「全然考えなかった。まあ良いや。明日は悪臭に耐えられる我慢強い人だけ占うよ。」
 優子さんは小さな白い手を口許に寄せて、クスクスと笑った。それ程落ち込んではいないみたいで安心した。
「占い師さんもクラシックのコンサートにはよく行くの?」
「ううん。高校の行事で行ったのが最後だよ。一人で来るのは今日が初めて。優子さんは?」
「リリアで開かれるコンサートはほとんど行ってる。前は東京へも聴きに行かれたんだけど、今は無理だから。」
「私と違って玄人だ。今までCDの録音でしか聞いた事なかったけど、パイプオルガンというのは随分足癖の悪いものだね。」
「足癖? ああ、演奏に足も使うものね。」
「あと、テレビゲームの戦闘シーンみたいだった。」
「テレビゲーム?」
 私自身はゲーム機を持っていないのだが、「二番目の彼氏」の家で対戦型ゲームやRPGをよくやったものだ。
 「二番目の彼氏」は二面性を持っていた。体が病弱だったから、おそらく体調と共に精神も安定しなかったのだろう。ささいなきっかけで機嫌が良くなったり悪くなったりし、散々私は振り回された。その態度の差たるやまるで別人のように大きく、ちょうど「一番目の彼氏」と「三番目の彼氏」が交互に現れる感じだ。そんな人を相手にゲームをするのは当然難しい。私が対戦に勝ってしまえば口を利かなくなるし、かと言ってわざと手を抜くとすぐに見破られてしまう。
 ゲームとはいえもともと勝ち負けのあるものは苦手だし、彼氏の扱いにも困るので、対戦型ゲームに参加するより彼氏がRPGを進めていくのをぼんやり眺める方が好きだった。しかしそれとて油断は出来ない。魔物と戦う戦闘シーンで精霊を呼び出す派手な魔法を使ったのに見ていなかったと言って、大喧嘩になった事があるのだ。
 そんな風にはた迷惑な人ではあったけれど、私は彼にわがままを言われるのが嫌いではなかった。不完全な体に閉じ込められ、感情を制御する自由さえ奪われている彼が、私に対してなら気兼ねなく安心して身勝手に振る舞えるのだと思うと嬉しかった。
 これが彼の甘え方なのだ。だから私はいつも子供をあやすみたいに……
「占い師さん?」
「……え? あ!」
「具合は大丈夫? ぼうっとしていたけど。」
「ごめんなさい。私、たまにこうやって意識が飛んじゃうの。自分を現実に上手くつなぎ留められなくてね、しっかりしがみ付いていないと離れちゃう。」
「コンビニで買い物している時も何度か立ち止まっていたよね。」
 昔の男を思い出させる物を見つけるともう駄目なのだ。ゲームやアイスやコンドームとか。
「そう言えば、ともなりさんに聞いたよ。私やともなりさんの名前を当てたんだって? すごいね!」
「うーん、それくらいなら、どうにか。」
 ともなりさんにその手の能力があるのかないのか、優子さんは知っているのだろうか。私の「名前当て」にこれだけ感動するという事は、多分知らないのだろう。
「ねえねえ、他にも何か当てられる?」
「そうだねえ、例えば……」
 無邪気にはしゃぐ優子さんの気分を損ねないか心配だったが、覚悟を決めて私は言った。
「あなたが今日持って来たその淡い空色のバッグには、『くまのプーさん』の絵の付いたプラスチックケースが入っている。その中には病院で処方された三種類の薬。あなたは出掛ける前、そのケースを忘れていないか必ず三回は確認する。薬なしには一時間と無事ではいられない、といつも考えているけど、実は今年の六月、梅雨特有の蒸し暑い夜に、睡眠薬の代わりとして一錠飲んだのを最後に、この数ヶ月はずっと薬なしで元気に暮らしている。」
 息つぎなしで一気にそうまくし立てると、優子さんは表情を失くし、一瞬顔面を蒼白にしたが、すぐに顔を真っ赤にして目をキラキラと輝かせた。
「すっごーい! そんな事まで分かっちゃうの?」
 本当は薬の種類だけでなく、錠剤の色や形や効能まで全て見えたのだが、あまり詳しく説明して気持ち悪がられるのは嫌だった。と言っても十分失礼な占いであるのに変わりないけど。
「ごめんね。人の秘密をあばくようなまねして。」
「確かにちょっと怖いくらいだね。でもやっぱりすごいよ。ねえ、同じように未来とかも当てられるの?」
「まあ、一応。」
 だからこそ占いを始めたのだが。
「その能力、占いの他にも使えないかなあ。値上がりする株や大穴馬券を当てて大儲けするとか。」
「えっ。いきなりらしくない事言うね。」
 優子さんの上品な風貌に株や馬券はふさわしくない気がしたが、大層乗り気なようだ。
「株なんて面倒だよ。買い方知らないし。」
「大丈夫! 私、そういうの案外得意なの。それにパパは証券マンよ。」
「あと馬券は難しくないだろうけど、ギャンブルはちょっと……」
 私は子供の頃からギャンブルの恐ろしさをくどくどしく説かれて育ったのだ。私の叔父が競馬、競輪、ボートにオートと、金が無くてもギャンブルなら何でもやる、という人で、顔を合わせれば説教する伯父を避け、しょっちゅう父の所へ金をせびりに来ていた。断り下手な父は渋々ながらもついついお金を渡してしまい、その度叔父に言えなかった小言を私や妹に向けてつぶやいた。
 ギャンブルは金を擦るから怖いんじゃない。金の感覚を狂わせるから怖いんだ、と。
「でも、絶対勝てるとしたら、大金持ちになれるんだよ。」
「大金持ちになってどうするの?」
「洋服もバッグも好きなだけ買えるよ! 占い師さん、お金持ちになりたくないの?」
「そりゃあ暮らしていくためのお金は必要だけど、それくらいなら事務仕事のお給料で十分間に合っていたからなあ……。洋服もバッグもごくたまにしか買わないし。それも安いやつ。」
「海外旅行に行く!」
「えー、別に行きたい場所なんてないもん。」
「マンション買うとか。」
「引っ越すのめんどくさい。」
 優子さんはイラ立ちを隠さずに言った。
「占い師さんは一体何が欲しいの。」
「ダメ男との愛欲の日々。」
 一つの迷いもなく即座にそう答えたのには、自分でも驚いた。
「ダ、ダメ男ぉ? その能力を使って『ダメじゃない男』を見つければ良いのに。」
「いつもそれと反対の事ばかりしてる。この力でダメ男を見つけ出すの。」
「何で?」
「うーん、でもさ、たとえ優秀な人を好きになるとしても、その人の素晴らしい部分じゃなくて、ダメな部分に魅力を感じたりするじゃない。」
「そういうものなのかな……。男の人と付き合った経験がないから分からない。」
 優子さんはテーブルにほおづえを突き、視線だけそっぽに向けた。
「短大までずっと女子校だったから、恋愛どころか知り合いになる機会も全くなかったの。だから男の人と一緒に働いたりしたらすぐ好きになっちゃうんじゃないか、って心配していたのね。でも、前に勤めていた会社の変なオジサン達はともかくとして、かっこいい上に優しくて親切で気が利いて頭の回転も速いともなりさんに対しても、恋愛感情が湧かなかったのよ。」
 それはそうだろう。私にはその理由が分かる気がした。
「コンビニでバイトを始めた頃、まだ私の体は完全でなくて、仕事中何度もトイレに行ったり、急に早退したり休んだりしていたのね。これじゃあクビになってもおかしくないなと思っていたんだけど、私の勤務状況の悪さに店長が気付かないよう、ともなりさんが上手く計らってくれたおかげで辞めずに済んだの。」
「へーえ。かけがえのない恩人だわね。」
「あと、私は仕事の妨げになる程生理痛がひどくて、前の会社では上司がオジサンだったものだから、なかなか生理休暇の申請を出せなかったんだ。それで生理中も無理して働いたのが、体を壊す一番の原因だったみたい。今回もまた同じようになったらどうしようってすごく不安だったんだけど、ともなりさんは私が生理痛で辛くなるとすぐに気付いて、仕事の負担が極力少なくなるよう努力してくれたの。そのうちともなりさんになら恥ずかしがらずに生理が来る日を言えるようになって、仕事の予定もその日を避けて組んでもらえるようになったんだ。こんなに色々してもらったのに、」
「続きを言ってあげようか?
『ともなりさんとの間に、埋めようのない距離のようなものを感じてしまう』」
「そう、そうなの。どうしてなのかな? 男なのにフリーターだから? 自分もフリーターのくせして、無意識に差別しているのかしら。」
 その答えは近いが正しくない。ともなりさんはああ見えて『普通教』の人間ではなくこちら側、つまり『ダメ男』に属する人間なのだ。そのダメさというのは正社員にならずにアルバイトをしているとか、そういう表面的な問題ではない。
 ともなりさんには過去がある。それも「わざとらしく」隠さずにはいられないような。何故そんな事をするかといえば、過去を公には出来ないけれど誰かしらには聞いて欲しい、という意思表示なのだ。そういう一見込み入った(実は単純な)やり方で人を惹き付けようとするのは、ダメ男によく見られる特徴だ。
 きっと私にあばいてもらいたいに違いない。
 そのダメさにホイホイ応じてしまう私が一番ダメなのだろうが、これが私の生き方だ。愚痴、後悔、懺悔、救済、何でも来い!
「男の人と付き合うのはそんなに良いのかな。愛欲って、エッチするのが楽しいって事?」
「まあそういうのもあるけど、それだけじゃあ、ないわねえ……」
 実際の所、私は性的関係においてはそれ程恵まれていなかったと思う。若い男なんてものは毎日そんな事ばかり考えて暮らしているのだと思っていたが、私の過去の男達は違っていた。彼らにとっては自分が抱えている苦悩が何より大事で、その次が勉強や趣味や仕事。そして優先順位のかなり低い場所に私はいて、性的なものはさらにそのおまけだった。多分、生きていく力の弱い男に、本当の意味での性欲なんてないのだろう。
 そんな風であったから、性的欲求を解消し、肌を合わせて安心するだけでは、どの彼氏も満足しなかった。性の中に性以上のものを、私の中に人間以上のものを求めるのだ。口づけや愛撫はおざなりに、息が苦しくなる程胸のあたりをきつく抱いて、泣き出しそうな懇願を心の中でする。私にはそれが全て聞こえてしまう。

 僕をここから出して。
 僕を、ここではないどこかに連れて行って。


「ごちそうさまでした」
 店を出ると空はすっかり紺色に変わっており、乏しいながらもぽつりぽつりと、小さな星も見え始めていた。
「ねえ占い師さん。」
「なあに?」
「ああいう薬を飲んでいる人の事、軽蔑する?」
「え? 下痢止め?」
「そっちじゃなくて……」
「ああ、心が弱った時に飲む方ね。」
「さっき『プーさん』のケースの事を当てられた時には何とも思わなかったんだけど、だんだん心配になって来たの。たまにいるでしょ? 
『ストレスで体を壊すなんて根性がないからだ。みんなだって大変なんだから甘ったれるな。』
というような考えの人。」
「うん、いるかもしれない。でも私は違うから安心して。心が傷付いた時、体も損なわれるのは当然だもの。私も会社を辞める程ではなかったけど、何度も体を壊したよ。」
「そうだったの。」
 「最初の彼氏」と付き合っている時は、原因不明の微熱が続いた。「二番目の彼氏」の時は、やっぱり原因不明の咳と軽い失語症。「三番目の彼氏」と別れる前の数ヶ月は、拒食症で見る見るうちに痩せていった。それでも病院に行かなかったのは、私の場合薬では治らないと知っていたからだ。
「軽蔑なんてしないし、第一優子さんの病気は完治しているよ。」
「そうなのかな。」
「色々当てて見せたでしょ? 信じなさい!」
 そう、優子さんは大丈夫だ。私のバカは一生治らないけれど。
 西口で一番大きなマンションに、優子さんは帰っていった。私は優子さんが途中で振り返っても不安を感じたりしないように、部屋の中に入ったのを感知するまで手を振り続けた。
posted by 柳屋文芸堂 at 00:03| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする