2010年11月28日

大賢者大森賢五郎(その8)

八、百八つの煩悩

 大賢者大森賢五郎の一件で疲れ果てたので、しばらくの間家でゴロゴロしていた。
 ようやく元気を取り戻し占いを再開すると、橋の上を通り過ぎる風が強く鋭くなったのを感じた。数日休んだだけなのに、季節は着実に冬へと近付いているらしい。
(浮浪者のおじさん達はどうしているんだろう。)
 川口駅周辺では沢山の人々が野外生活を送っている。特に夏の間は、上半身裸で街を闊歩したり、色とりどりの花の咲く花壇の中でお昼寝したりするものだから、よく目に付いた。その様子は真夏の太陽を満喫する自由に満ちていて、ちょっとうらやましいくらいだったが、そういう姿ももう見ない。こんな薄ら寒い中、屋根無し・壁無しで暮らすと思うと、さすがに心配になる。
 塚沢冷機工業の倒産が決まった時、パートのおばちゃん達は、
「『一寸先は闇』って言うけど、本当にそうねえ。」
なんてしみじみ話していた。
 しかし私はむしろ、浮浪者のおじさん達とすれ違う度に思い浮かべる、
「明日は我が身」
 という言葉の方が自分に合っている気がした。このまま仕事に就けず貯金も尽きて、親や親戚も頼れなくなったら、私も寒空の下に放り出されるのだ。
(その前に西川口で水商売か。でも気が利かない上に性的魅力は皆無だし、売れっ子になれないだろうな。)
 大金持ちになりたいなんて一度たりとも考えたためしは無いが、やはり先行き不安になるとお金の大切さが身に染みる。雨、風を防ぎ、食って寝て生きてゆくためには、
「お代は一銭もいただきません。」
 とばかり言ってもいられない。
(無闇に強欲になるのは馬鹿馬鹿しいけど、お金の問題を甘く見たら絶対痛い目に遭うと思うんだよね。貯金が底をつく前に何とか手を打たなければ。)
 私には物欲が全く無い。別に無理して欲を捨てた訳でなく、単純に「形ある物」を欲しいと思わないのだ。だから生活必需品以外に金を使う事はほとんど無い。それゆえ特に貯めようと努力してもいないのに、銀行口座の残高が無意味に増えていた。
(食欲も旺盛じゃないし、名誉欲や権力欲なんてどんなものか想像も出来ない。その分恋愛に対する欲が異常に強いんだよねえ。)
 人間には百八つの煩悩があると言う。私の場合そのうち百五個くらいまでが愛欲に関わるものだろう。
 お客の来る気配もなかったから、折りたたみ式の小さな机にほおづえを突いて、今現在自分が何を欲しているのか考えてみた。

 みつあみをほどいて髪を指ですいて欲しい
 ほっぺたや背中を撫でて欲しい
 まぶたに口づけして欲しい
 首筋を唇でなぞって欲しい
 耳たぶを噛んで欲しい
 あるのか無いのか分からないちっちゃなおっぱいを揉んで欲しい
 嘘でも良いから、
「きみ子ちゃんは可愛いね」
 とか、
「大好きだよ」
 とささやいて欲しい
 ……

(我ながら、アホだな。)
 大体私は誰に対してこれらの望みを抱いているのだろう。ともなりさん、という答えが反射的に心に浮かんで、顔を熱くしながらすぐに否定する。だって、あの人は。
(あ〜! 私の中に愛欲と関係のない煩悩はないのか?)

 牛乳が飲みたい

 そう、最近そごうの地下で売っている牛乳に凝っているのだ。小さい瓶で一本二百五十円と失業者には贅沢な品物だが、飲み終えた後、
「プハァー」
 と息を吐いた時に、「牛乳飲んだぞ〜」という香りが体中に充満する感覚がたまらなくて、つい買ってしまう。
(あれを覚えたら他の牛乳はただの『白い水』にしか思えない。優子さんとともなりさんのいるコンビニで買えば安いし、喜んでもらえるのにね。)
 自分では欲の少ない方だと思っていたけれど、
「より美味しい牛乳」
 を求めてしまうという事は、やっぱり人並に貪欲なのだ。
 人間は完全に満足したりしない。何かを手に入れれば、さらに上をゆく何か、を得たいと願ってしまう。きっと真面目な仏教徒なら、
「煩悩があるから人間は救われないんだ。修行を積んで欲深い心を正さなければ。」
 と考えて、座禅を組めだの、托鉢をしろだの、お経を読めだのとうるさく言うだろう。
 でも本当に欲さえ捨てれば幸せになれるのか。例えば私が「百八つの煩悩」から解放されたとしたら、夜中に突然昔の男との悲しい会話を思い出し、のどが痛くなる程大泣きして目を腫らす事もなくなる。それは確かに私を楽にするに違いない。
(うーん、私にとっては「楽」が必ず「楽しい」って訳じゃないもんなあ。苦しみこそ恋愛の最大の醍醐味かもしれないし。自虐的過ぎるかしら。)
 愛欲を失い、牛乳すら飲みたがらない私。そんなの悟りの境地から程遠い、単なる無気力女じゃないか。
(そうなると「虚無」に近付いちゃうんだわ。)
 「欲」だけでなく「無欲」も人間を不幸にするとしたら、救いなんてどこにも無い気がして来る。実際私は昔の男を誰一人幸せに出来なかった。
(私は不幸なのかな?)
 失業している。失恋して散々傷付いた。大勢人を集めて決を採れば、
「沼田きみ子は不幸である。」
 という意見が賛成多数で可決されよう。けれども強がりでなく本心から、私は自分の人生に満足している。
(美人でもないのに三回も恋愛出来たもんね。もしかしたら三回とも私の片思いだったのかもしれないけどさ。)
 あらゆる女性的な魅力を欠いているにも関わらず、三回も真剣に男と愛し合えた。「愛し合う」という表現が的確でないとしたら、

 傷付くのを恐れずに対峙した。
 目をそらさず真っ直ぐに見つめた。
 どうにか相手を幸福にしたくて、無い知恵を絞った。
 心の底から祈った。

 予知能力などより、
「悪い結果しか出ないと知りながらも、臆病風を吹かせたりせず立ち向かう力」
 を授かった事に、私は感謝する。
 誰が何と言おうと、私は幸福だ。
(まあこれだけ好きなように生きてりゃ幸せだよな。)
 今日も橋の上を歩く人々は、不幸の水をシャボリ、シャボリと跳ね上げている。この長く溜まった闇のせいで、川口駅周辺はそこはかとなく暗い。「剣と魔法の世界」の勇者なら、悪を倒し、明るい世界を取り戻そうと、冒険の旅に出る決意をしてしまうくらいに。
「悪はどこにいる!」
 勇者は切符を買うのももどかしく、改札口で剣を抜く。
「駅構内に危険な男がいます。すぐ来て下さい!」
 東口のエスカレーターを降りた所の交番からおまわりさんが駆け付けて、勇者はあっけなくしょっぴかれる。
(そうして川口は誰の目から見ても、垢抜けない街になりました。めでたし、めでたし……なのかあ?)
 何故こんな闇が溜まってしまったのか。この闇は取り除くべきものなのか。
 悪を持たない人間なんていないから、少しずつ垂れ流された闇が積もり積もって不幸の水になる。幸と不幸を簡単に切り離せないのと同じように、善と悪が程好く混じり合ったものが人の魂だ。本気で悪を根絶しようとするならば、人類を滅亡させなければならなくなってしまう。
 闇は人の暮らす所ならどこにでもある。幼い頃から人の心を覗き続けて、私はその闇をすっかり好きになった。でもだからと言って、
「へっへっへ、闇深き人間どもめ。どんどん不幸になってしまえ〜」
 と人々の苦しみに喜びを見出す訳ではない。例えば、浮浪者のおじさん達は今頃、地下道に並べたダンボールの中で重たい空気を吸っている。さぞ息苦しかろうに、その様子を楽しんだり出来るものか。
 しかしながら、私は彼らを助けられない。ここで世知辛い世の中を憎み、自分の無力さを嘆くのは簡単だ。そうする代わりに、私は小さな一歩を踏み出そうと考える。
 まず自分を幸福にする。それから隣の人を幸福にしようと努力する。そして橋の上を歩く人々の迷いを占いで解決する。
 偽善と言われれば吹き飛んでしまうような情けない行いだけれど、めぐりめぐって浮浪者のおじさん達にも恵みがもたらされるかもしれない。
 闇を愛そう。闇を持つ人々の幸福を願おう。
「あ〜、いた、いた。お嬢ちゃん!」
「こんばんはー。寒くなりましたねえ。」
「もう二度と会えないかと思ったよ。」
 声をかけてくれたのはこの間のパチンコおばちゃんだった。今日はそごうの紙袋ではなく、スーパーのビニール袋をいくつもぶら下げている。
「もしかして何度かここに来ました?」
「買い物のついでだけどね、『いるかなー?』って毎日見てたよ。」
「それはすみませんでした。しばらく休んでいたんですよ。」
「いやあ、別に急な用事じゃないし。」
 おばちゃんは銀歯を光らせて笑った。
「そうそう、パチンコはどうでした?」
「それがさあ〜」
 おばちゃんは嬉しいのか恥ずかしいのか、ニヤニヤしてなかなか語を継がない。私は少々緊張しながら、冷たい風で赤みを帯びたおばちゃんのほっぺたを眺めて、次の言葉を待った。
「絶対やるな、って言われた日によ、我慢し切れなくてパチンコ屋に行っちゃったんだ。」
「あれまあ。」
「そしたらお嬢ちゃんとの約束破ったバチが当たって三万円取られちゃったよ。」
 そうなるのは予想済みだったので、私は苦笑いしてうなずいた。
「だから次の日は、お嬢ちゃんの言った通り小さい方のパチンコ屋に行ってみたんだ。」
「どうでした?」
「うん、三万ちょっと勝ったよ。でね……」
 おばちゃんは突如私の右手をつかみ、何やら冷たいものを私に握らせた。おばちゃんの指は古い松の枝みたいに堅くざらざらしていて、その感触にびっくりしてしまった。
「これを渡そうと思って、探していたんだ。」
 ゆっくりてのひらを開くと、金色の五百円硬貨が街灯の光を受け、やわらかく輝いていた。
「えっ、お金は受け取れません!」
「お嬢ちゃんのおかげでちいっと得したもんね。本当は勝った分全部あげたいんだけど、夕御飯のおかず買ったりしなきゃいけないから、ごめんねえ。」
「最初にお代はいりません、って言いましたし。」
 私が五百円硬貨を無理に返そうとしても、おばちゃんは激しく首を振る。
「でも……」
「じゃあ、こうしよう。このお金は、お嬢ちゃんじゃなくて、お嬢ちゃんの後ろにいる人へのおさい銭だ。」
「後ろ?」
 ここは橋の端っこだ。振り返っても頑丈な柵とビルしか見えない。変なの、と思いながら元の向きに体を戻すと、おばちゃんは背筋をピンと伸ばして目をつむり、合掌していた。
 駅前に集まる車の騒音、家路を急ぐ人々の足音、路上ミュージシャンの奏でる音楽。そういった全ての音がどこかに吸い込まれ、おばちゃんの周りにだけ、しんと静かな空気が漂う。私の口も声の出し方を忘れたように動かなくなった。
 おばちゃんは手を合わせたままゆるゆるとお辞儀した。私も座ったまま深々と頭を下げた。
(仏様?)
 街の雑多な物音がようやく耳に戻って来た時、おばちゃんはすでに私のそばを離れ、遠くからこちらを見ていた。
「ありがとうございます!」
 五百円硬貨を高くかかげ心の中でそう叫ぶと、おばちゃんはもう一度あのニヤニヤ笑いを浮かべてから、駅の方に消えていった。
(稼いじゃった、稼いじゃったぞ!)
 占いで稼いだ初めてのお金を指でつまみ、わざと街灯の光を反射させた。気分的なものも手伝って、妙にまぶしく感じられる。
(どうしよう、これも失業認定日に報告しなきゃいけないのかなあ。)
 怖いのは職安でなく大賢者大森賢五郎だ。そう度々あんなのに出て来られちゃたまったもんじゃない。私はふと、図書館で文春の話をした際、ともなりさんに、
「たまには買ってね。」
 と言われたのを思い出した。
(決ーめた! コンビニで証拠隠滅だ。)
 私はそそくさと店を畳んでコンビニに向かった。この時間、レジに立っているのはともなりさんのはずだ。
(とっもなりさん! とっもなりさん! とっもなり……)
 心の中の歌声はコンビニに着いた途端、消え去った。ガラスを透かして店内を覗くと、優子さんが泣きそうな顔で店番をしていたから。
 あそこでレジを打つのは、ともなりさんのはず、なのに。
 気配が操作されている。もっと簡単に言えば、
「魔法がかかってる」
 大賢者大森賢五郎の手紙と一緒だ。
「優子さん!」
「占い師さん……」
 私の姿を見て気が緩んだのか、優子さんの大きな瞳いっぱいに涙がたまった。
「ともなりさんは?」
 優子さんは唇を震わせて、首をふるふると横に振った。
「こんな暗くなっても働いているなんておかしいじゃない。昼間だけって約束で始めたんでしょう?」
「そうなんだけど……断れなくて。もうじき店長が来るの。そうしたら上がれると思うから、ねえ占い師さん、この間のお店で待ってて。話を聞いて欲しいの。」
「一体何がどうしたの。」
 優子さんと同じくらい、いや、それ以上に、私も混乱していた。事情が全く分からない。見ようとすればする程見えなくなる。与えられるのは、無。
 優子さんはその場の高ぶった空気を鎮めるように、大きく息をして、言った。
「ともなりさんが、いなくなっちゃったの。」

 ああ、まだ何もしてないよ。
 強く、強く、予感していたのに。

 こんなに早くこの日が来てしまうとは。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:49| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする