2010年11月28日

大賢者大森賢五郎(その9)

九、探しものは私の街で川口で

 言われた通りこの間のスパゲッティ屋に入って待っていたが、優子さんはなかなか現れなかった。氷入りの冷たい水をがぶ飲みしながらあれこれ考えてみても、ともなりさんの消息にかけられた魔法は強力で何も見えず、ただ不安が増すばかりだった。
(予知能力のない普通の人はいっつもこんな風に暗闇の中にいるのか。みんなよく耐えているなあ。偉いなあ。)
 結局、洗い方を間違えた洋服のようにヨレヨレになった優子さんが店に入って来たのは、時間をつぶすために頼んだイカ墨のスパゲッティを全て食べ終わった後だった。
「つ、疲れた……。ちょっと占い師さん、こんな一大事だというのに、何、のん気に口を黒くしているの!」
「ごめん。でも何も注文しない訳にいかなかったから。」
 優子さんは疲労と空腹でイライラしていた。触らぬ神にたたりなし、と、優子さんの食事が終わるまで事件の核心に迫るような会話は一切避けた。
(余裕がなくなると随分きつくなるんだな。完全にささくれ立っているよ。)
「ごちそうさま。」
 ナプキンで口をぬぐうと、優子さんはすっかり落ち着いたらしく、目をとろんとさせた。何も聞けないうちに眠られては困るので、慌てて尋ねた。
「で、ともなりさんの事なんだけど。」
「ああっ、忘れてた。」
 人の事は怒鳴っておいて忘れないでよ、と思いつつ、優子さんの持っている情報は全て手に入れたかったから、表情を変えないで静かにうなずいた。
「おとといの夜にね、私のケータイにともなりさんが電話をかけて来たの。
『しばらく店を休みたい。店長にはうまく言っておいて欲しい。』
って。」
「うん、それで?」
「それだけ。」
「……。」
 私は優子さんの大きな瞳をじっと見つめた。優子さんはまた泣き出しそうな顔になって、私を見た。
「それって、単にコンビニを休みたかっただけなんじゃないの?『いなくなった』と言い切る根拠が分からないな。」
 違う、違う! と言うようにぶんぶん首を横に振って、優子さんは続けた。
「だってともなりさん、今まで一度も仕事を休んだりしなかったんだよ!」
「誰にだって『初めて』はあるでしょう。」
「休む理由を言わなかったし。」
「言いづらい理由なのかもしれないじゃない。」
「店長に直接連絡しなかった。」
「自分だって店長に直接物を言うの嫌いなくせに。」
「……。」
 優子さんはしばし無言になり、つんと横を向いた。と同時に、
「もうテメエには頼まねーよ、ボケ!」
 という恐ろしい心の声が聞こえて来た。
「ご、ごめん。確かに私もちょっと奇妙に感じているのよ。」
 単に休みたいだけなら、こんな強力な魔法で私の目をくらませる必要はない。
「ただそのケータイへの電話一本で失踪と決め付けて良いものかと思ってね。」
 ちらり、とこちらに向けられた優子さんの目が、
「そう簡単には許さないわよ。」
 と言うように冷たく光った。
「勘が鋭いのは占い師さんだけじゃないんだからねっ。私もピンと来たの!」
 そんな怖い顔で言い切られちゃ、取り付く島もない。ただ黙っているのも気詰まりだったから、冷たい水でそっとぶくぶくうがいをした。
(イカ墨取れたかしら。……何でこんなに叱られているんだろ。)
 優子さんはしばらくの間、警戒する猫のような雰囲気を醸し出していたが、急にぷつんと糸が切れたように、大粒の涙を流した。
「ともなりさんがいなくなっちゃったら私、なんにも出来ない。」
 震える声でそう叫ぶと、恋人に捨てられる直前の女(もしくは男)のように、しゃくり上げて泣き始めた。
(ともなりさんが心配なんじゃなくて、要は自分が困っているからどうにかしろって言いたいのね。)
 実の所、たとえともなりさんが本当に失踪したとしても、私に探す権利なんてない気がしていた。独りぼっちの人間は、寂しさに耐える義務を負う代わりに、勝手にいなくなる自由を与えられるのではなかろうか。きっと何かしらの理由があって、それを行動に移したのだろう。恋人でもなく、孤独を癒す自信もない私に、止める資格はない。
 けれども優子さんに依頼された仕事だと考えれば、かえってやりやすくなる。
 そう、これは「商売」なのだ。
 未練たらしい女が無様にあとを追うのではなく。
「優子さん、川口市の地図を用意出来るかしら。なるたけ新しくて詳しいのが良いな。」
「この辺りの地図? 家にあったかもしれない。取って来るね!」
 優子さんを待っている間、一つの風景が心に浮かんで離れなかった。うそ臭い鮮やかな空色を背景にし、独りぼっちで立っている巨大な建物。新宿駅西口の高層ビルを一本だけ引き抜いて、住宅地に植え替えたような違和感。
(人が住んでる。ええっ、これがマンション?)
 そうだ、エルザタワーだ。数年前、川口駅東口からバスで十分程の所に建設された、五十五階建ての高層マンション。薄紫色に淡くかすんだてっぺんが、遠くからでもよく見える。不動産好きの伯父が、特に必要でもないのに一部屋欲しいと言い出して、夫婦喧嘩になったのを思い出した。
(何だろう。ともなりさんがここにいるのかしら。)
「持って来たよ!」
「ありがとう。」
 優子さんに手渡された地図には、細かい町名だけでなく、町会の名前まで載っていた。
「ねえ、ともなりさんの住んでいる場所、知ってる?」
「詳しくは分からないけど、エルザタワーのそばだって言ってたよ。」
 やっぱり。では単にともなりさんは仕事をサボり家で休んでいるのか。
「電話番号は?」
「ともなりさんち、電話無いんだって。ケータイも持ってないし、変わってるよねえ。」
 二人っきりのひっそりとした暮らしに、電話なんていらなかったのだ、きっと。
 地図の裏に印刷されている川口駅周辺の航空写真や市長の顔を眺めた後、エルザタワーの位置を確認した。
(あった、エルザタワーの自治会。その隣の町会は元郷二丁目、元郷四丁目……うーん、ともなりさんの暮らしている気配は感じないなあ。)
「ねえ、ともなりさんは今、どこにいるの? 家?」
「なんか違う気がするんだよねー。」
 その時、心の奥の方で音が聞こえた。何? 波の音? ばーちゃんちの竹の葉の音?
 ああ、そうじゃない。向こうに水が流れている。これは川べりに生える雑草を揺らす風の音だ。大きな川……川口と東京を隔てている荒川か。ともなりさんの家はこの近く……
「あれ?」
 おかしい。エルザタワーから荒川を見たとしたら、川口駅の気配を右手に感じるはずだ。
「ねえ、本当にともなりさんは元郷の辺りに住んでいるの?」
 優子さんは首を傾げて、寂しそうに微笑んだ。
「正確な住所は教えてもらえなかったんだ。」
「そうなんだ……。前に私にも東口側に住んでいるって話をしていたけど、どうも西口側のような気がするのよ。」
「何で?」
「なーんかこう、荒川を目の前にすると、駅が左にあるなー、って感じだから。」
「……。」
「相変わらず感覚的過ぎて心配だ、って今思ったでしょ。」
 優子さんは心を読まれた事を怒りもせず、呆れ顔でうなずいた。
 私は地図上のエルザタワーを指でつついた後、西口側の荒川沿いを指でなぞった。
(横曽根図書館の近くだ。ともなりさん、何で嘘なんかついたんだろ。)
「さーて、探しに行ってみる?」
「ごめん、私は……。」
 やっぱりね。猫が見つかったとはいえ、まだ気軽に出掛けられる精神状態ではない。しかも今は夜だ。要望を出すだけ出して「後はよろしく」なんて、お客さんというのは良い身分だよなあ、とちょっぴり思いもしたが、すぐに打ち消してにっこり笑ってみせた。
「任しておいて。きっとともなりさんを見つけ出してみせるわ。」
「頑張ってね、占い師さん。」
 私は深くうなずいた。
(見つけ出すだけならね。その後は保証出来ないや。)

 折りたたみ式とはいえ机と椅子を持って冒険の旅に出るのは嫌だったから、一度自分のアパートに帰って来た。
(悪者が現れると困るもんね、しっかり武装しなくっちゃ!)
 まず座布団代わりに使っていた防災ずきんのほこりを払い、頭にかぶった。
(ケホ。ちょっとカビ臭いけど身を守るには十分ね。これ、小学生の頃に使っていた奴だよ! 物持ち良いんだなあ、私って。)
 次に押し入れの奥から綿入れ半てんを出して羽織った。そして胸元に、昔の男がくれた三通の手紙を忍ばせた。
(みんな一通ずつしかくれなかったんだよね。)
 「最初の彼氏」の手紙には、傷付けても傷付けても再びそばに戻って来る私を見ているのがどれだけ辛いかが語られている。
 「二番目の彼氏」の手紙は、彼の機嫌が非常に良い時に書かれたらしく、
「マイ スイート ハニー きみ子ちゃんへ」
 で始まっている。
 「三番目の彼氏」の手紙には文学青年らしい人間や世界への苦悩がにじむ。
「あなたさえ幸福になってくれれば、僕はどうなっても構わないんだ。」
 全部、私の宝物だ。どんな強力なお守りより、私の心を支えてくれる。
 さあ行こう。剣も鉄砲も持たずに。
 私の武器はこのちっぽけで奇妙な力だけ。

 私は自転車に飛び乗り、夜の川口をひた走った。京浜東北線の陸橋を越え、川口駅西口から線路沿いを西川口方向に向かって行く。薄っぺらいマンションを右手に見て寂れた商店街に入ると、街灯にぶら下がる赤い旗が光に照らされぼんやりと浮き上がり、熱いはずの体がゾクリと冷えた。
(あー、良かった。夜だから動いてないのね。)
 甘い香りのしないお菓子工場は難なく通過。その先のお稲荷さんも素早く通り過ぎるつもりでいたが、気が変わって自転車を急停止させた。
(さっきの五百円、ここで使おう!)
 昼間ですら異界の雰囲気を漂わせる強い力を持ったお稲荷さんであるから、夜ともなるとさらに近寄りがたくなる。けれども嫌悪や恐怖とは全く違う、おごそかで温かな何か、があるのも確かだった。ちょうどこの世とあの世のはざまを感じさせる、ばーちゃんの寝顔みたいな。
 石の狐の間にあるさい銭箱に五百円玉を投げ入れ手を合わせる。
(ともなりさんが見つかりますように。)
 いや、見つかる事は分かっている。でもその後どうするのか。全てを見てしまわないように心を閉じようとすると、胸の辺りがもやもやして眉間にしわが寄る。
(とにかく進まなくっちゃ。)
 鋳物工場、銭湯、駄菓子屋。それぞれが昭和三十年代の闇をまとったまま、私を見送ってくれる。何故だろう、こんなに真っ暗なのに、ちっとも怖くない。誰かが私の背中を押している。ばーちゃん? お稲荷さん? 神様? 仏様?
 それとも昔の男達?
(横曽根図書館……本早く返さなきゃなー。督促状来ちゃうよ。)
 すっかり活動を停止して、すやすや眠っているみたいなコンクリートの建物を前に、私は再び決意する。
 ここから、荒川に向かっていこう。
 頭の中を大量の水が流れていく。聞こえるはずのない草のざわざわ、パイプオルガン、笛、太鼓。耳が音に支配されて。
(あれ?)
 こんな道、前来た時にあったっけ? 右側にはエルザタワーを思わせる超高層マンション。左側にはこれまた巨大な鉄工所。
(瞬間移動しちゃったかな。しかもこの世じゃない場所に。)
 限りなく続くかに見える真っ直ぐな道。見上げればマンションの壁も夜空に向かって果てがない。昔の男達からの手紙の入った胸元をぎゅっと押さえて心細さを払い、自転車を漕ぐ。鉄工所の青い柵越しに、鉄パイプがごろごろと転がっているのが見える。何に使うのかやたらに太くて、直径が私の身長程もある。
 鉄パイプも道もマンションもしんと静かなのに、私の頭の中の音はいよいよ大きく響く。見えるもの、聞こえるもの、全て幻なのか。それともこちらが本物なのか。
「家だ……。」
 鉄工所を囲っている高い塀の向こうに、小さな木造の平屋が建っていた。大賢者大森賢五郎と会った場所に似ていたが、赤いつる薔薇の代わりに白い木蓮の花に包まれている。
(この花、春に咲くんじゃなかったっけ。)
 なめらかで大きな花びらが、はらり、はらりと目の前を落ちていった。
 夢だろうと現だろうと構わない。私は木蓮の門をくぐり、ちゃちな作りの戸を開けた。
「えっ。」
 そこは、まぎれもない、私の住むアパートの部屋だった。
posted by 柳屋文芸堂 at 23:47| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする