2010年11月28日

大賢者大森賢五郎(その10)

十、大予言者沼田きみ子

「何で自分の家に戻っちゃうわけ?」
 その時、電話が鳴った。私は他人の家に勝手に上がるような奇妙な感覚を味わいながら、見慣れた受話器を手に取った。
「あははははははは!」
 とっさに耳を離す程の大声。
「名を名乗れ!」
 そう叫んでも、相手はまだ笑っている。仕方がないので、笑いが収まるまで口を利かずに待った。
「僕が誰だか、分かってるくせに。」
「電話をかける時は自分から名前を言うもんでしょ。」
「だって沼田さん、何でそんな格好しているの? 防災ずきんなんて大袈裟だよ! 空襲警報でも鳴った?」
 それだけ言うと、先程よりも大きな声で再び笑い始めた。
(確かに恐ろしい目に遭わないって予知していたんだから、普通の服でも良かったのよね。でも何事も形が大事だし。それに……)
「大賢者大森賢五郎に油断するなって忠告されたから、私なりに武装したんだけど。」
「そっか、そうだよね。ごめん。」
「別に謝らなくても良いよ。」
「夜道を一人で歩かせちゃったね。僕みたいな人間を探しに来てくれてありがとう。」
 その瞬間、図書館で借りた本を見せ合った時に感じた強い雑音のようなものが、頭の中に響いた。そして今度はその意味が、はっきりと理解出来た。

 僕の心の中を覗いて。
 僕の心に入って来て。

 そこは小さな事務所だった。白い大きなテーブルを挟んでスーツ姿の男性二人が、静かに話し合っている。
 この部屋の調度品はどれも、良く言えばシンプル、悪く言えば全く特徴がない。ここから出て行った途端に、そこがどんな場所であったかすっかり忘れてしまうくらいに。けれども決して、それらが安っぽい品だという訳ではない。部屋の隅々まで均質な光で照らす照明器具を始め、一切の乱れなくファイルの並ぶ書棚なども、専門業者から仕入れた高級品である事が一目で分かる。
 落ち着いた色のカーペットは真新しく毛が起きていて、足元がフワフワする。私はテーブルでの話し合いに差し障りのないよう、小声で電話をかける。私が着ているのは淡いピンクのツーピース。胸元には服と同じ生地で作った花飾り……
「もしもし?」
「『もしもし』をビジネスシーンで使っちゃいけないよ、沼田さん。『大変お待たせいたしました。』とかさ、もっと丁寧な対応を心がけなきゃ。」
「どうせ私はダメ事務員だったわよ。それより何なの、これは。」
「話し合っている二人をよく見てごらん。」
 片方は恰幅の良い中年男性で、毎日お肉を食べてます、と言わんばかりに浅黒い顔がテカテカしている。
「ねえ、あれ、塚沢冷機工業の社長じゃないの。」
「もう一人は?」
 書類を広げて社長に何やら説明している、背の高い若い男。顔も服装も非の打ち所なく整っていて、この部屋に似た印象を持つ。
「わーっ! ともなりさんだっ。スーツ着ると一段とすてきになるわねえ。」
「ありがとう。そう率直に誉められると照れちゃうな。でも、あの姿も商売道具だったからね。」
「何をしているの?」
「見ての通り、仕事をしているんだよ。」
「じゃあここは。」
「そう、僕の過去。」
 私にあばいてもらいたいに違いない、なんて考えたのを思い出して、おでことほっぺたが熱くなった。
「分かりやすい仕事じゃないみたいね。そば屋とか魚屋なら過去に来るだけで判断付くのに。」
「得意技を使いなよ。」
「社長の頭の中には……右肩上がりのグラフが見える。」
「僕の方は?」
「えーっと、なーんにも見えない。随分強固な壁を築くんだね。」
「たとえ相手に超能力が無くても、少しでもスキを見せれば勘付かれるものだよ。疑いを持たれたらおしまいだ。」
「つまり、本心を知られてはいけない職業。」
 社長はともなりさんを信じ切って、甘い夢を見ている様子。穏やかな口調で説明を続けるともなりさんはあくまでさわやかだ。
「おじさん専門の結婚詐欺師だったら嫌だなあ。」
「結婚詐欺師からどうしても離れられないんだね。言ったでしょ、世の中を動かしているのは愛欲だけじゃないって。」
「うーん、そりゃあいつも人の心の中を覗いているから、他にも色んな種類の欲があるのは知っているよ。他人をけなして自分を上に見せたい欲、あとは愛と関係ない純粋な性欲とかさ。でも実感が伴なわないから、知識としてしか理解出来ないんだもん。」
「沼田さんには無理かな。」
「うん! お手上げ。」
「諦めの良過ぎる人だ……。まあ仕方ない。僕の仕事はね、自分の置かれた状況に不満を抱いている人を探す所から始まるんだ。」
 俺はこんな所にいるべき人間じゃない。もっと別の、自分に相応しい場所があるはずだ。叔父や最初の彼氏、その他にも沢山の人の心から、そんな言葉を聞いた気がする。
「塚沢冷機工業の社長も、会社の経営をしているだけでは満足出来なかったのかしら。」
「経営者である事は誇りにしていたよ。ただ、ちょっぴり客観性に欠けていたのかな。」
「きゃっかん?」
「十の実力しかないのに、百の仕事が出来ると信じている人。百万円しか持っていないのに、一千万円使えるような気になっている人。そういう人達はどこにでもいる。そして彼も、その中の一人だったんだよ。」
「あっ、社長が帰っていく。何、ニヤニヤしているのかしら。もうじき会社がつぶれるっていうのに……。」
 ようやく、ひらめいた。
 いや、もしかしたら、私の鈍さにうんざりしたともなりさんが、正しい答えを頭の中に送り込んだのかもしれない。
「あなたが、塚沢冷機工業をつぶしたの? 何で、どうやって。」
 応答が無い。電話の向こう側の気配が消えた。と同時に、塚沢冷機工業の社長への別れのあいさつを終えたスーツ姿のともなりさんが、すっと振り返り私の顔を真っ直ぐ見つめた。
「仕事というのはそういうものだと思い込んでいたんだよ。欲深い人間を見つけ出し、虎の皮をかぶせて、もう一人の欲深い人間と出会わせる。つぶすのが目的だった訳じゃない。必然的につぶれてしまうだけだ。」
 私は今まで、塚沢冷機工業が倒産した理由なんて考えてもみなかった。社長の独断で始めた新規事業が、儲けも出さずに立ち行かなくなって、本業を圧迫しているという噂は聞いた。けれど下っぱ事務員にとって真実は闇の中だったし、能力を使って追究するのも無駄な気がした。会社なんてつぶれてしまえば皆一緒だと思っていたから。
「ともなりさんが社長をそそのかしたんだ。変な仕事に手を出すように。」
「僕が直接仕事を教えた訳じゃないよ。僕は紹介しただけ。十の実力しかない人に、十の実力しかない人をね。お互いに百の実力があると思い込ませるため、いかに上辺を取りつくろうかが僕の腕の見せ所。借金や過去の失敗を隠したり、今までの実績を大袈裟に伝えたり、まあ簡単に言えば、」
「詐欺師ね。」
「そう。みんな相手を平気でだましておきながら、自分がだまされている事には気付かないんだ。面白いくらいに。」
 カラカラと乾いた笑い声。誰を笑っているのか。
「その仕事、儲かるの?」
「新しい商売を始める時は気が大きくなるからね。紹介料をはずんでくれる。」
「はずんでくれなかったら脅迫するんでしょう。『本当の事をばらすぞ』って。」
 沼田さんらしいなあ、と言いながらともなりさんはクスクス笑った。
「僕はもっと婉曲な表現を使って品良くやるよ。」
「余計に悪徳!」
 笑ってくれるかと思ったら、ともなりさんは瞳をしんと静かに暗くして、唇を閉じた。
「ご、ごめん。責めるつもりなんて無かったの。塚沢冷機工業の社長なんて大して好きじゃなかったしさ、強欲な人間が損をするのは自業自得だもん。確かに倒産でつらい思いをした人は沢山いたけど、きっと今頃は新天地で楽しくやってるよ。私は最初から知ってて入社……。」
「悪い仕事だなんて、一度も思わなかったんだ。むしろ良い行いをしているつもりだった。こうやって罰を与える事で、人間から欲という欲が消え去れば、素晴らしい世の中になる。そう信じてた。」
 足元に、墨色の水が溜まっていく。天を仰げば、いつか見た濃いスミレ色の空。
 大丈夫、今度こそ虚無に負けたりしない。
「それに、お金も必要な気がしていたんだ。僕はいつもおばあさんが心配でね、もしも寝たきりになったり、痴呆になったとしても、みじめな思いをさせたくなかった。だから入金の度、半分はおばあさんに渡して、残りは全額貯金していた。無駄使いなんてしなかったよ。欲しい物なんて無かったから。」
 この人も私と同じように、物欲が無いんだ。初めておしゃべりした時すぐに親しみを感じたのは、欲に関して似た所があったせいかもしれない。けれど私みたいにアホらしい程の愛欲があるとも思えないし、一体何を楽しみにして生きているのか。
「おばあさんだよ。」
「えっ。」
 あっさりと心を読み取られた事よりも、一つの迷いもなく即座にそう答えた事に驚いた。
「おばあさんさえ幸せでいてくれたら、それで良かった。」
「でもおばあさんは死んじゃったんでしょう?」
「そうだ。長患いもせず、まるで最初からいなかったかのごとく静かに、向こう側へ行ってしまったよ。僕はおばあさんに何も与えられなかった。」
「お給料の半分渡していたのだって偉いよ。私も妹もいまだに親の世話になるけど、お金なんて一銭も出してないもん。せいぜいパンをみやげにするくらいでさ。」
 スーツ姿のともなりさんは、声を立てずにぼんやり笑った。
「納骨が済んだ後、おばあさんの引出しを整理していたら、僕名義の銀行通帳が見つかったんだ。」
 私には見えた。「お預り金額」の欄に綺麗に並ぶ数字の列。爆発的に増えていく残高。「お支払金額」の欄に数字が記入される事は決してない。
「全部使わずに貯金しておいてくれたの。優しいおばあさんだね。」
「優しい? 確かに優しい人だったよ。でも僕は悲しかった。」
「どうして。」
「僕なんて必要なかったと気付いたから。」
「そんな訳無いじゃない! 人が人を頼るのって、経済的な面だけじゃないでしょう。立派な孫がそばにいてくれて、心強かったはずだよ。」
「立派? 詐欺師が?」
「ま、まあ……。職業に貴賎は無いわよ、多分。」
「おばあさんはつましい年金暮らしの中で充足していた。僕はあの時、責められたような気がしたんだ。
『お前がやって来たのは、通帳に数字を並べる終わりのないゲームでしかないんだよ。』
ってね。」
 水かさを増した「虚無の湖」はくるぶしを飲み込んで、ぴしゃり、ぴしゃりとすねを舐める。
 何か言ってあげたいのに、言葉が出て来ない。
「それからしばらく、生きているのか死んでいるのか分からない暮らしをしていた。息をしている、というだけ。紹介の仕事を再開する気なんてさらさら起きなかった。」
「コンビニのバイトは何で始めたの?」
「特に理由はないよ。偶然求人を見かけて、深い考えも無く応募した。ただ、『このままではいけない』という気持ちが膨らんでいたのはのは確かだ。」
 小さな希望のようなもの。おそらく優子さんも同じ思いで働き始めたのではないか。
「時給の安さには驚いたけど、僕はコンビニで沢山の事を学んだよ。お客さんは急に入り用になった品物や、食べたい物を買いに来る。」
「当たり前じゃない。コンビニエンスなストアなんだから。」
「もちろんコンビニがどんな場所かは僕だって知っていたよ。僕が見失いつつあったのは……沼田さんには想像出来ないかもしれないな。生活必需品を買う以外のお金の使いみちなんて。」
「男に貢ぐ。デート代。」
 やっぱり、という風にともなりさんは苦笑した。
「僕の手管に引っかかる連中が欲しているのは、見栄を張るための金、威張るための金、競争相手に勝つための金。そんなものばかり扱っていたせいで、僕のお金に対する感覚はいつの間にか狂っていた。必要な物を必要な時に買う『当たり前』なお金の使い方、つまりお金の本来の姿を、僕はコンビニで働いてようやく思い出したんだ。」
「ふうん。」
「気の無い返事だなあ。」
「だってよく理解出来ないんだもん。」
「そこに沼田さんの存在価値があるんだけどね。」
 ふふふと笑うともなりさんは、誉めているのか、けなしているのか。ちょっぴり悔しかったので、振りしぼるように考えてみた。愛すべきダメ男達を頭に思い浮かべながら。
「本当の自分と、理想的な自分の間に空いた隙間を、そのお金で埋めようとするのかしら。」
「うん、きっとそうだ。僕はいつもそういう人間の愚かしさを軽蔑して、利用して来た。利用しているつもりだった。けれど虚しさの果てに思い至ったよ。間違っているのは僕の方なんじゃないだろうか、って。」
「誰が正しくて、誰が間違ってるかなんて、誰にも決められない。神様も仏様も。」
「そうなのかな。」
 何でも良いからともなりさんを励ましたかった。虚無に飲み込まれるのを食い止められるもの、それだけが、私にとっての善だった。だから私は大声で。
「愚かしくて、悲しくて、可愛いよ。人間は。」

「……あれっ?」
 そこは私の部屋だった。ともなりさんの姿はない。電話本体から外れてぶら下がる受話器を耳に当てると、「ツー」という無機質な音が終わりなく鳴り続けていた。
(ここは本物の自分の部屋? それともともなりさんを探しに来て辿り着いた幻の家の中なのかしら。)
 淡いピンクのツーピースが、夢ではない事を証明している。防災ずきんと綿入れ半てん、昔の男がくれた三通の手紙はどこへ行ったのやら。
(詐欺師なんてロクなもんじゃないわね。奇術師の間違いなんじゃないの。)
 一人でぼんやりしていても埒が明かないので、扉を開けて外に出てみた。すると、はらり、はらりと私の髪を撫でながら落ちていく木蓮の花びらが、「まだ時空はねじれたままですよ。」と優しく教えてくれた。
(ともなりさん、いなくなっちゃったのかな。)
 無性に胸が苦しくなって、涙がこぼれた。どれだけ一生懸命になっても、みんな私を置いて遠くに行ってしまう。離れていってしまう。本当は一人で生きていくのが怖くて仕方ないのに。幸福な思い出と不幸な思い出が一緒くたにわっと心へ押し寄せて来て、螺旋階段を転げ落ちるように理性を失い私は泣いた。
 何故傷付くと知りながら愚かな行為を繰り返すのか。何故私は「私」という存在と一生を共にしなければならないのか。何故私は安心感を手に入れられないのか。何故……
「沼田さん、泣いてるの?」
 涙で顔をグシャグシャにし、鼻をたらしたまま振り向くと、そこには普段着姿のともなりさんが立っていた。
「な、何よ! まだいたの?」
「『まだ』はひどいなあ……。予知能力使ってよ。」
「混乱させたのはともなりさんじゃないかっ。」
 差し出されたポケットティッシュで鼻をかんでも、涙腺に勢いがついてしまったのか、なかなか泣き止む事が出来ない。登園を嫌がる幼稚園児みたいにしゃくり上げる私に向かって、ともなりさんはすまなそうにつぶやいた。
「今の沼田さんを見ながらこれを言うのは辛いけど、ごめん。僕はもうここから発つつもりなんだ。」
「知ってたよ。」
「じゃあ何でこんなに泣いたの。」
「自分から逃げる方法はどこにもないのかな、って思ったら急に悲しくなっちゃったのよ。でももう大丈夫。平気。」
 まぶたの重たさを我慢して、にっこり笑ってみせた。
「逃げる事は出来なくても、向き合う事は出来る。そう考えて、僕は旅立つんだ。」
「自分を見つめ直すくらい、ここにいてもやれるんじゃないの?」
 無駄と分かっていても、つい未練たらしく引き留めてしまう。
「優子さんの世話を焼いたり、沼田さんの行く先々に出没したり、用事が多過ぎて雑念が払えないもんでね。」
「私に近付いた理由って……。」
 全て偶然などではなく、ともなりさんが仕組んだ「必然」であるのは最初から分かっていた。けれど私が不安だったのは。
「僕がいなくなった後、独りぼっちになる優子さんの相談相手にぴったりだと思ったから!」
「やっぱり。」
 あからさまにがっかりする私に向かってともなりさんは、待ってましたとばかりに優しい声で告げた。
「でもそれだけじゃない。駅前でぼんやり座っている沼田さん初めて見た時、強い衝撃を受けてね。」
「衝撃?」
 ただ過去の思い出に浸っていただけだと思うのだが。
「昔の彼氏達との愛欲の日々、ぜーんぶ見ちゃったから。」
「ひぇ〜。そうだよね、同じ能力があれば簡単に出来るはずだもん。」
 男の面影を追って生きているのを恥じるつもりはさらさらないが、心の中を丸々見られてしまうと、さすがに決まり悪い。ともなりさんは私の複雑な気持ちになんて全然気付かない振りをして、さわやかに続けた。
「沼田さんは本当に過去を誇りに思っているんだね。」
「だって、真剣に愛したもの。裸見られたってやましい所は一つも無いわよ。」
「僕はいつも迷ってばかりいるから、とてもうらやましかった。それで絶対、この人と仲良くなってやろうって決めたんだ。」
 愛の告白を受けたようにドキドキした。顔が熱い。
「ついでに旅に出る決意もしちゃったんでしょ?」
「うん。」
「どうも上手く利用された気がするなあ……。」
 ともなりさんは茶目っ気たっぷりに微笑んだ後、すぐにすっと笑みを消し、呪文を唱えるようにおごそかな声を響かせた。
「川口駅東口から東に向かって進むバスに乗り、十三個目の停留所で降りてしばらく歩くと、そこに深い森がある。」
 私にはその森が見えた。こずえを揺らして飛び回る小鳥の羽音。太陽の光に透ける葉の緑。私を育てた愛しいゆりかご。
「ねえ、それ、ばーちゃんちの雑木林でしょ。『あんぎょう』の近くだから今でも植木屋は多いけどさ、高速道路が通ってから住宅が増えちゃって、もう森や林なんてほとんど残ってないわよ。畑と小川はつぶされて病院が建っちゃったし。それに……」
 太い切り株のあった細い道もアスファルトで舗装されて、今では車がビュンビュン通っている、と続けるつもりだった私をさえぎり、確信に満ちた調子でともなりさんは言い切った。
「そこに入り口があるんだ。」
 ともなりさんは虚無の湖に小舟を浮かべ、いずこかに漕ぎ出ようとしている。たどり着くべき岸辺があるのかさえ分からないのに。
 ここは相変わらず永遠の夜に包まれている。水面が虹色にきらめく朝など、一生出会えないのかもしれない。
 しかし音もなく打ち寄せる虚無の波を見つめているだけでは、何も得られない。
「仏様みたいに修行するの? その中で。」
「まあそんな所だね。」
 きっと大丈夫。ともなりさんの舟は頑丈な造りをしているから。
「ところで沼田さん、この間渡したハーゲンダッツのアイスクリームはどうした?」
「食べたわよ。」
「えーっ!」
「捨てるのはもったいないし、冷凍庫に置いといても邪魔だからね。」
「甘い物嫌いなんでしょう?」
「やっぱり知ってて買って来たのね。」
「出掛ける前にもらおうと思ってたのに。」
「そういう魂胆だったか。」
 お前も甘党だな、ともなりさん。
「うーん、残念。」
「あっ、アイスの代わりに良い物があるよ。」
 私は木蓮の門の奥に戻り自分の部屋の冷蔵庫を開けて、そごうの地下で売っている一本二百五十円の牛乳を取り出した。
「失業者が身銭を切って買った高級品よ。」
「紙パックじゃなくてガラス瓶なんだね。美味しそう。」
 昔ながらの丸いふたを外して手渡すと、ともなりさんはゴクゴクと音立てて一気に飲み干した。
「プハァー」
「どう?」
「牛乳飲んだ〜って香りが鼻から抜けるね。」
「思わず悟りが開けちゃいそうでしょう。」
「沼田さんはスジャータと同じくらい、僕に力を与えてくれたよ。」
 にっこり笑うつもりだったのに、上手く答えられなくて泣きそうになった。うつむいた私に向かって、ともなりさんは優しい声で言った。
「川口市じゅうの悩める人々を救うような、立派な占い師になれるよ、きっと。」
「ありがとう。お世辞でも嬉しい。」
 微笑みの気配を感じて顔を上げたのに、私と目線が合った時には、すっかり真面目な顔つきに戻っていた。
 整った、けれど決して冷たくない、その表情。
「さようなら。」
 まるで遠くの方から投げかけられた言葉みたいだった。まだすぐそばにいるにも関わらず。もしかしたら彼の心と体は、すでに半分「向こう側」に入ってしまったのかもしれない。
 彼の魂にしっかり届くよう、私は大声で叫んだ。
「私知ってるのよ。あなたが『ともなり』なんかじゃないって事。本当の名前は……。」
「いつか僕が真実を見つけて、『こちら側』に帰って来る事があったら、堂々と名乗るよ。」
 行ってしまう、虚無の湖の向こうに。
 さわやかに手を振って。 
 光を吸い込む黒い水面。
 どうか、どうか、丸ごと飲み込まれたりしませんように。

 気が付くと、ともなりさんはいなくなっていた。木蓮の花びらは静かに散り続けている。
 目的は果たした。帰ろう、本当の自分の部屋がある、小さなアパートへ。
(なーんだ。ここ、前にも通ったよ。)
 薄明るくなり始めた空の下でよくよく眺めてみて、ようやく気付いた。鉄工所も高層マンションも共に見覚えがある。
(最初に西口を探検した時、この横の道を走ったんだな。)
 そう言えば、結局ともなりさんの家は西口と東口のどちらだったのだろう。エルザタワーや荒川の風景に振り回されたけれど、今改めて考え直してみると、「ともなり」なんて人物は川口のどこにも住んでいなかったような気がする。その証拠に、ついさっきまで一緒にいたはずなのに、もう顔も思い出せない。
(こうやって記憶から自分の姿を消しちゃうのか。)
 忘れ去られてしまえば、詐欺の罪で訴えられる事もない。残した女達を悲しませる事も。
(でもでも、たとえ悲しくっても、最初からいなかったみたいに綺麗さっぱり忘れちゃうのは嫌だな。何か記憶を引っ張り出すためのしおりがあれば良いのに。)
 その時、コツンと頭に何か当たった。
「痛ーいっ。」
 道端に転がった水色の小さな箱を拾い上げると、それはシャチハタ印だった。ふたを開けて試しにてのひらへ押し付けてみると、「大賢者大森賢五郎」という黒い印影がくっきりとつややかに残された。
(誰だっけ?)
 胸の奥をもやもやさせたまま駅の方角に向かっていくと、次々に色々な物が頭の上に落ちて来た。防災ずきん、綿入れ半てん、昔の男がくれた三通の手紙。私は三人三様の書き癖がよく表れている「沼田きみ子様」という文字を見つめ、「最初の彼氏」「二番目の彼氏」「三番目の彼氏」それぞれの顔を思い浮かべた。
(もう一つ思い出すべき顔があったはずなんだけど……)
 心の底にうっすら積もった寂しさが、ゆっくりと全身を冷やしていったので、あわてて淡いピンクのツーピースの上に綿入れ半てんを羽織った。そうして川口駅西口に着き、優子さんの住んでいるマンションを見上げていると、何やら軽いひらひらした物が視界の端を落ちていった。
(木蓮の花びらかしら。)
 何故花びらなんて思い付いたんだろうと不思議に感じつつ、かさり、かさりと音立てて地面を滑っていくそれを追いかけ、手に取った。
「千円札だ……。」
 ニセ札ではない。赤青黄色の細い線で描かれた図案をすみずみまで眺めて首をもたげると、表、裏、表、裏とクルクル回りながら雨か雪のようにお札が降って来る。ああ、あの人の貯金通帳だ。無意味に増えた残高が、今こうやって、風の中に放出されている。
 解き放たれたの? 呪縛から。
(浮浪者のおじさん達が朝一番に見つけると良いなあ。)
 これから先、優子が一人でやっていけるのか、多少心配だった。でもきっと大丈夫だ。明日になればもう誰かを頼りにしていた事なんてすっかり忘れて、バリバリ働き始めるに違いない。そしてそのうち、
「何でこんな安月給で雇われてなきゃいけないのよっ。」
 と怒りを爆発させて、さっさと正社員の口を見つけるだろう。ボーナスが出たらブランド品のバッグを買いに行こう。東京のでっかい音楽ホールで、パイプオルガンを一緒に聴こう。ケチらずにいっとう高いチケット買って。

 生きていこう。図太く、したたかに。
 ほら、もうじき、この街の夜が明ける。

(完)
posted by 柳屋文芸堂 at 23:45| 【長編小説】大賢者大森賢五郎 | 更新情報をチェックする