2008年10月23日

ど素人お茶談義(その4)

◇お茶の淹れ方で自らを省みる◇
 結婚前に勤めていた職場には、「のりこ」という名前の世話好きで几帳面なお姉さんがいた。喫茶店で働いていた経験もあり、
「美味しく紅茶を淹れるには、熱湯でジャンピングさせて、茶葉を綺麗に開かせないと」
「(ドリップ)コーヒーを淹れる時には『蒸らし』が大事なのよ」
 とあれこれ丁寧に教えてくれた。けれどその頃の私は素直そうに「はい」と答えながらも、心の中で、
「お湯と茶葉(もしくはコーヒーの粉)が触れさえすれば、どうやっても結果は同じだろう」
 と考えていた。
 こんな風に書くと、お節介なお局様と生意気な新人の関係みたいに聞こえるかもしれない。だが実際は、彼女を可愛いと思いこそすれ、煙たく感じた事なんて一度もなかった。何しろ大きな目をくりくりさせながら、
「ピカチュウが好きなんでちゅ!」
 なんて幼児言葉を使い、なおかつそれがものすごく似合う、というたぐい稀なる三十代だったのだ。しかもその後「柳田」さんの所に嫁にゆき、「二代目柳田のりこ」になってしまった!(「のりこ」が漢字なんだけどね)
 話がそれた(っていうかこんな事勝手に書いちゃって良かったのか?)
 要するに私は、職場の中で飲み物を用意しなければいけない立場にあり、さらにはそのための知識を優しく教えてくれる人がいたにもかかわらず、
「どんな味になろうと知ったこっちゃない」
 とザクザク粗雑にお茶を淹れていた訳だ。それを思い出すと今でも申し訳なく思う。
 しかし仕方がなかったのだ。その頃の私は、
「一刻も早くプロの小説家にならなければ。そのためにどうにかして力をつけなければ」
 と強い焦燥感にかられていて、仕事をしながら放送大学で勉強をし、読書も欠かさず、小説を書き、文学賞に投稿し、同人誌即売会に参加し、とせわしなく活動していた。もちろん私にとって宗教に等しい恋愛にも情熱を注ぎまくり…… 要領の良い人ならいざ知らず、人一倍不器用な私にとっては、目の回るような毎日だった。そんな余裕のない心と体では、仕事そのもの(医療事務)を間違えずにこなすのが精一杯で、お茶の淹れ方に気を遣うなんてとても出来なかったのだ。
 嗜好品であるお茶やコーヒーを深く味わうには、おそらく「ゆとり」が必要なのだろう。だからこそ、幼児言葉を違和感なく使いこなす「のりこ」さんが、お茶やコーヒーへのこだわりを語るのを見ると、
「ああ、この人は私よりずっと大人なんだ」
 と十二歳の年の差を思い出した(普段は同い年か年下みたいだった)
 この若さゆえの(?)粗雑さを反省する機会が、結婚前に一度あった。NHKの『ためしてガッテン』で「美味しい紅茶の淹れ方」が取り上げられた時だ。見た事がある人なら分かると思うけれど、この番組ではその回のテーマを追究するためにさまざまな実験をする。お湯の温度を変えてみたり、丸、三角、四角(円筒)のティーポットを使ってみたりして、茶葉の動き(浮き沈み)の違いを調べていた。
 そうして、「九十五度のお湯」と「丸型のティーポット」の組み合わせが茶葉のジャンピングを起こすのに一番都合が良く、水に溶け出すお茶の成分量も最も多くなる、という結果が出た。
 文章で読めば「ふーん」だが、実際に映像で見せられると説得力がある。私はテレビの前で愕然とした。
「お湯と茶葉が触れれば何でも良いって訳じゃなかったんだ!」
 その時私が反省したのは、職場で淹れていたお茶の味だけではない。自分の思慮の足りなさ、そこから来る生き方の粗雑さ…… 私は人生の中で、どれだけ細かな部分を省略して来ただろう。不器用さと面倒臭さを言い訳にして。もしかしたら、この性格が小説の完成度にも響いているのかもしれない。たかがお茶の事ながら、自分という存在について真剣に考えてしまった。
 こんな私も最近では、お茶を淹れる前にティーポットへお湯を少し注ぎ、温めておいたりする。こうするとジャンピングを生むお湯の対流が長続きするのだ。これも昔だったら「無駄な手間」と決めつけていたに違いない。
 私にも一応は「ゆとり」が出来たのだろう。小説書きに対する焦燥感はまだあるけれど、放送大学は卒業したし、「胸焦がす恋愛」が「穏やかな結婚生活」に移行したのが何より大きい。
 どうも何を書いてものろけに戻ってしまうな。ま、良いか。
posted by 柳屋文芸堂 at 11:28| 【エッセイ】ど素人お茶談義 | 更新情報をチェックする