2008年10月21日

その音の響く夜に(その21)

「思った通りだ。」
「え……?」
 気が付くと一太もなっちも大吉も太鼓を打っておらず、やぐらを下りる所だった。
「初めてだなんて信じられねえよ。」
「終わったの? 初午太鼓。」
 なっちの不思議そうな顔を見て一太は一瞬目を丸くし、それからすぐに大笑いした。
「気付かなかったのか? お前、夢中になって打ってたもんなぁ。」
「私、ちゃんと出来てた?」
「ちゃんともちゃんと! 上手かったぞお。」
 記憶が途切れた不安からようやく開放されて、ホッとしかけた、その時。なっちの頭の後ろにコチンと何かがぶつかった。
「痛っ。」
「大吉っ。」
 一太の声に振り向きもせず、大吉はなっちを小突いたグーの手をひらひらさせて、小僧たちの方に走っていった。
「いきなり、もう。仕返しなのかな?」
「いや、褒めてるつもりなんだと思うぞ。」
「うっそだあ。」
 その後何度も何度も、なっちは初午太鼓を打った。一太の即興を追いかけ、大吉の低音を背中に浴びて。小僧たちと入れ代わり立ち代わり。時の経つのなんてすっかり忘れてしまったから、全てが一瞬のように、全てが永遠のように思えた。
 夜のとばりが完全に降りると、子供たちの出番は終わりになった。なっちはもちろんもっと打ちたかったが、てのひらのマメがどれも破けて血がにじんでいたし、何より「やりたい事を存分にやれた」という充足感が心に満ち満ちていたので、素直に太鼓から離れた。
 次の主役は「若い衆」と呼ばれる青年たちだ。みんな鉄を熔かしている時とはうって変わって、子供みたいな無邪気な顔でバチを振り回している。
「悔しいけど、俺たちよりずっと上手いんだ。かっこいいからよく見……、なっち?」
 なっちが見ているのは若い衆の太鼓ではなかった。闇の中にぼうっと光り浮かぶ、四角い地口あんどん。その切ないような美しさに、視線も心も奪われていたのだ。
「ねえ、何で地口あんどんの光はちらりちらり揺れるんだろう?」
「さあ……。風で火が大きくなったり小さくなったりするからじゃねえか?」
「火? 中に入ってるのは電球じゃないの?」
 一太はなっちの言いたい事がよく理解出来ず、ただ首を傾げただけで何も答えなかった。
「近くに行って見ても良いかな?」
 一太が「おう」と答えるより早く、なっちはふらふらと吸い寄せられるように、地口あんどんのかかっている赤い鳥居へと向かっていた。
「綺麗。」
 あんどんにはぐにゃぐにゃと崩れた文字と、淡く彩色されたキツネが浮かび上がっている。
 どれくらいの時間、それをながめていただろうか。やぐらのそばに敷かれたゴザには酒とごちそうと人々が集まり、祭りらしいにぎわいを見せている。大吉と小僧たちも赤飯をかっこみ甘酒を飲んで、ふざけた踊りを踊っている。おそらく酔っ払ったつもりになっているのだろう。無理やり酒を飲まされた一番気弱な職人が、真っ赤な顔で一緒に踊る。すっかり出来上がった連中が、はやし立てつつその輪に入る。
 膨らみ続ける喧噪から、なっちと一太ははずれたままだった。一太は本当を言うと赤飯食いたさに腹がぎゅうぎゅう鳴っていたのだが、なっちの様子がいつもとあまりに違うので、動けずにいた。
 そこにふと、笠を目深にかぶった女性が一人、なっちの前を通り過ぎた。薄紅色の着物と真っ白い首筋は、地口あんどんと同じようにぼんやり光っているように見える。職人と子供ばかりのこの場所におよそ似つかわしくない風情だ。彼女はなっちの横にたたずみ、ほんの少し笠を上げた。冷たそうな肌に宿る、優しい表情。その視線の先にいるのは、銀だった。
「一太。」
「……何だ?」
「あの人、一太のお母さんじゃないのかな?」
「そんな訳ねえよ。母ちゃんは死……。」
「ほら、見てごらん。」
 銀は女性の期待に応じるようにすっと席を立ち、やぐらに向かった。
「あーあ、父ちゃん打つのか。」
「嬉しくないの?」
 銀は一番はしの締太鼓を打っている若い衆に、代わってくれるよう頼んでいる。
「あんまり上手くねぇんだよなぁ。ほら、生まれた時からここにいる訳じゃないから。」
 銀は遠慮がちに締太鼓を打ち始めた。確かにどことなくぎこちない。熔けた鉄を扱う時の凛々しさを思えば、がっかりするのも当然だろう。
「でも、何だかあったかい気持ちになるよ。」
「そうかなあ。」
「うん。やっぱり一太のお父さんが一番かっこいい。」
 完全に納得してはいないものの、父親を褒められるのはやはり悪い気はしないらしく、一太はほんの少しだけほおをゆるめた。
「あっ、今の顔!」
 なっちは次の言葉を飲み込まなければならなかった。「あの女の人にそっくり」と続けたかったのに、当の女性のてのひらに口をふさがれてしまったのだ。ほっそりした白い指はなっちのくちびるから耳たぶに向かって移動し、内緒話の形に軽く丸められる。そこに女性の笠が近付いて、なっちの顔は半分かくれた。
「……どうした?」
 女性が音もなく立ち去った後、なっちは顔色をなくして茫然としている。一太が話しかけても何も答えない。
 理由の分からない沈黙がしばらく続いた後、なっちは覚悟を決めるように、すう、と息を吸った。
「帰りなさい、って言われた。」
 一太はその言葉が自分にとってどんな意味を持つかを理解し、背筋をぶるりと震わせた。
「何でだ?」
「あなたはここにいるべき人間じゃない、って。私と同じだ、って。」
 なっちの声も高く震えている。
「同じ……。」
「ねえ、一太のお母さんって死んじゃったんだよね?」
「そうだ。俺は赤ん坊だったから顔を覚えてない。」
「もしあの人が本当に一太のお母さんだとしたら。」
 なっちはすがるように一太の目を見た。
「私、死んじゃったのかな?」
「そんな訳ねぇだろ!」
「でも、おかしいよ。もう何日もここにいるのに、お父さんもお母さんもさがしに来ない。それにもう気付いてるの。ここは空も風も人の暮らしも、私が前にいた所と全然違うって。私の知っている事と一太の知っている事が半分も重ならないって。」
 一太は反論出来ずにつばを飲む込む。
「『トラックに轢かれて私が死んだらどうするの!』なんて言っておじさんをおどしたから、きっと私、バチが当たって死んじゃったんだ!」
 大声で泣き出しそうになったなっちの胸に、一太はてのひらを押しつけた。
「生きてる。」
 低い静かな声にハッとしてなっちは前を見る。
 怖いくらいに真剣な顔。
 心臓の上にあるのは、ゴツゴツと硬い働き者の手。
 涙は一粒だけポロリとこぼれて、残りは引っ込んでしまった。
「良い音が鳴ってるぞ。ドン、ドン、って。」
「本当に?」
「うそついてどうする。」
 ようやく一太の顔にいつもの微笑みが戻る。なっちもつられて瞳を細めた。
「だいたいお前が死んでるとしたら、ここは地獄か極楽か? 俺たちは鬼かお釈迦様か? 冗談じゃない。俺たちはこの地べたの上でちゃんと生きてるんだ。」
 一太は足下の土をドンと踏みしめてから、なっちの腕を自分の胸にぐいと引き寄せた。
「……鳴ってる。」
「だろ?」
「生きてる。」
 なっちは自分がひどく馬鹿らしい心配をしたのだと気付いて、照れるように笑った。しかしすぐに気がかりな事を思い出し、真顔に戻った。
「それじゃあ、一太のお母さんの言った『同じ』って何だろう。」
 一太は、銀がみんなから嫌われていると告げた時のような寂しい表情でつぶやいた。
「ここにいられない、のかな。」
 なっちは意味が分からず首を傾げる。
「よそ者の所へ嫁に行ったから、母ちゃんは死んじゃったんだって、前に言われた事がある。」
「誰に?」
「大吉だ。」
「ひどい。そんな理由で人が死ぬ訳ないじゃないの!」
「きっと大吉の父ちゃんがそう話したんだ。『本当は銀なんぞと一緒になるような女じゃなかった』ってな。」
「もしかして……。」
 なっちは好奇心に瞳を輝かせた。
「大吉のお父さん、一太のお母さんが好きだったんじゃないの? それでヤキモチ焼いて……。」
「さあ、俺もそこまでは知らん。」
「なーんだ。」
「ただ、ここに居づらかったのは確かだろうな。だからって、いなくなる事ないのに。」
 一太の悲しげな顔を見て、なっちは自分の家族を思い始めた。日が落ちてから雨が降り出すと、必ず傘を持って太鼓の練習場にむかえに来てくれたお母さん。なっちの勇姿を撮るんだと言って、ビデオカメラを新調したお父さん。二人ともお祭りを、いや、なっちが太鼓をたたくのを、とても楽しみにしていた。
 何故分からなかったんだろう? やぐらの上か下かなんて、どうでも良い事なのに。
「馬鹿だ、私。」
 今度は一太が首を傾げる。
「ねえ、まだ初午終わってないけど……、おうちに帰っても良いかな?」
 予想していた言葉だったので驚きもせず、一太は大きくうなずいた。
「でもその前に、赤飯食わねえか?」
「そうだね。『おまんま』食べないと、どこにも行けないね。」
 二人はお腹をぐう、と鳴らしながら、みんなの集まっているゴザの方に走っていった。
posted by 柳屋文芸堂 at 22:33| 【中編小説】その音の響く夜に | 更新情報をチェックする