2020年03月03日

翼交わして濡るる夜は(その1)

「日本で一番コーヒー牛乳が美味しい県はどこでしょう!」
 男は僕の肩に腕を回し、テーブルに置いてあったカルーアミルクを左手でくいっと飲んだ。
「あーっ! それ僕が頼んだのに」
「こんなのよりさ、コーヒー牛乳にラム酒入れたやつの方が絶対美味いって」
 僕は男の顔を見た。頬骨が高く、全体的に骨格がゴツゴツしている。髪は細かく縮れてふんわりと、アフロとパンチの間くらい。
「さっきのなぞなぞの答えは何ですか?」
「なぞなぞじゃなくてただの事実だよ。日本で一番コーヒー牛乳が美味いのは、鳥取県!」
「鳥取?」
 水木しげるの出身地である境港があって、あと有名なのは、砂丘、二十世紀梨、らっきょう。コーヒー牛乳の名産地だなんて聞いたことがない。
「きっと水が良いんだろうな。大山って山があるから。名水で育った牛の乳と、名水で淹れたコーヒーなら、まあコーヒー牛乳も自然と美味くなるよな!」
 男は僕の肩をがしっとつかんだまま、カルーアミルクを飲み干してしまった。
「うちにあるんだ、その鳥取のコーヒー牛乳が。もちろんラム酒も」
 Tシャツから伸びる太い二の腕を見て、胸やお腹にもしっかり筋肉が付いているのだろうなと想像する。ジムで鍛えているんだ。いつでも裸になれるように。
「別のもの飲まされそうだからお断りします」
「おお、乗り気だねぇ、嬉しいねぇ!」
「いやいやいや」
「あ、お兄さん、カルピスサワーを二つ!」
 ドキドキしていた。耳は真っ赤になっているはずだし、この人がそれに気付かない訳がない。
 かなり奇妙なやり方ではあるけれど、僕は口説かれている。見知らぬ人からあからさまに性欲を向けられたのは初めてで、正直言って全然イヤじゃなかった。面白そうな人だし、ふらっとついて行ってコーヒー牛乳やら別のものやらを飲んじゃっても構わないかなと、思わなくもなかった。
 でも僕は人を待っていた。同い年の無口な大学生で、最初に会ったゲイバーにいるからと押し付けるように約束した。メールに書いた時刻を、もう一時間以上過ぎている。
 待ち人を諦めて店を出るまで、男は僕の肩を離さなかった。二人で席を立つと男は思った以上に背が高く、見上げるようだった。視線がぱちりと合う。男は微笑んで、
「高校時代はバレー部だったんだ」
 と決まり事みたいに言った。
 店を出ると男は少し距離を置いて隣を歩いた。僕を口説く気はもうないらしく、知り合ったばかりの人間同士の、ありきたりな会話をした。
「名前は?」
「翼です」
「サッカー部? って聞かれるだろ」
「そうですね、主におじさんに」
 両親は僕の名前を、ヴェルディのオペラの一節「行け我が思いよ、黄金の翼に乗って」から付けたのに、みんな大昔に流行った漫画しか思い出さない。僕も面倒臭いから説明しない。
「俺はアキラ」
「懐かしいですね」
「懐かしい?」
「アニメがあるじゃないですか」
「お前いくつだよ!」
「二十歳ですけど。古い漫画が好きなんです」
 一番好きなのは水木しげるだ。僕の神様。
 電車の中で出身地を聞かれたので、熊本だと答えた。アキラは腕を組み、首を振って、
「熊本の男とはやったことがないな」
 と残念がった。まるで山好きの人が「阿蘇山にはまだ登ってない」と言うような調子だった。
 驚いたことに、アキラと僕の家は最寄り駅が一緒だった。電車を降りた後、コーヒー牛乳を飲みにうちにおいでと誘われたら、ついて行くつもりでいた。なのにアキラは、
「俺、コンビニ寄ってくから〜」
 と手を振って、あっという間にいなくなってしまった。僕もコンビニに用があったのに、何だか未練たらしく追いかけるみたいで、そのまま一人暮らしをしているマンションの部屋に帰った。
 携帯電話を確認すると、司からメールが来ていた。

 急にバイトが入っちゃって、行けなくてごめん。

 待ち合わせ時刻の前に知らせてくれれば良いのに。分かってる。司は僕にそんなに興味がないんだ。初めて会った時も、僕だけが必死に話しかけて、司はどこかそわそわと、僕との会話なんて上の空だった。
 それでも僕は司と仲良くなりたかった。表情のあまり変化しない、不機嫌そうな顔が渋くて格好良かったし、何より僕と正反対なのが気に入ったのだ。
 僕は普通にしていても「どうしてそんなに楽しそうなの?」と聞かれたりする。中学生の頃、おしゃべりし過ぎて教師に説教されて、反省してるのに「ヘラヘラするんじゃなか!」とさらに怒られたこともある。どうも僕の顔には真剣味が足りないらしい。
 すぐにアキラからもメールが来た。別れる前にアドレスを交換したのだ。

 近所だったのは笑ったね。何となく、お前とは長い付き合いになりそうな気がする。

 馴れ馴れしいなぁ、もう。僕はそんな気、全然しません! と意地悪キャラで通そうかと思ったけど、実は僕も同じことを考えていた。
 僕は司ではなく、アキラのことを好きになるのだろうか。ベッドに入ると一人なのが寂しかった。鳥取のコーヒー牛乳が飲みたかった。高校時代に付き合っていた人のことを思い浮かべ、その人が僕にしてくれた気持ち良いことを、頭の中でもう一度してもらった。
 東京に来てからずっとしてないんだよな。今、一番したいのは司だ。でも出来ない気がする。もう会うことさえないのかもしれない。
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翼交わして濡るる夜は(その2)

 今度こそ必ず遅刻しないで行くから、もう一度あの店に来て欲しい。

 司からメールが届いた。バイト先である居酒屋が人手不足で忙しく、余裕がなくて、約束をすっぽかすなんて最低最悪のことをしてしまって本当にごめん、言い訳してごめんと、一つのメールに「ごめん」という文字が三、四回出てきた。
 居酒屋で働くの、大変そうだもんな。あの夜は落ち込んだけど、まだ望みはあるのかもしれない。借りを返される側の優越感にひたりながら、

 気にしなくて良いよ。

 と返事を書いて、再び会うために予定を合わせた。
 約束の日、言った通り司は先に来て僕を待っていた。モスグリーンのアーミージャケットを着ていて、司の引き締まった眉と目によく似合っていた。のび太くんみたいな格好をしている自分が恥ずかしかった。
 メールと同じように何度も「ごめん」と繰り返した後で司は、
「翼は甘いもの平気?」
 と聞いてきた。その時に僕が飲んでいたのはストロベリーダイキリで、僕が甘いもの好きなことくらいすぐ分かるだろうにと思いつつ、うん、とうなずいた。
 司は茶色い革のリュックから、小さな黒い紙袋を取り出して僕に渡した。
「お詫びの、チョコレート……」
「わーっ ありがとう!」
「あと、待っている間に使ったお金も払うよ」
「いや、いいって、ほんとに。気にしないで!」
 前回の支払いはアキラがしてくれたのだ。
 司はバイト先の居酒屋の話をし、僕は自分のバイト先である個人指導の塾の話をした。給料は悪くないけど事前に教えることを予習しなければならず、結局時給にしたら五百円くらいなのかも、とかそんな話。
 大変だねと言い合ったら、もう次にするべき会話が見つからなかった。司は前に会った時と変わらずうつむきがちで、僕とは絶対に目を合わせない。サークルに入ってないのはもう聞いた(僕も入ってない)お酒を飲みながら大学の勉強の話をするのもどうかなぁ、と思う。二人とも無言の、気まずい時間がしばらく続いた。
「よぉ!」
「あっ」
 顔を上げると、アキラの顔があった。花火がパンとはじけるような、明るい笑顔だった。
 どうしよう。アキラは何故か店員のように銀の盆を持っており、司の隣に腰掛けた。
「再会を祝して!」
 アキラはテーブルに炭酸飲料の入った三つのコップを置き、僕たちに持つよう促した。
「乾杯〜!」
 飲んでみると、それはジンジャーエールだった。司はストローに口を付け、不審そうにコップを見た。
「どうしたの?」
「これ……」
「まあまあ、気にせず飲んで飲んで!」
 そう言いながらアキラは司の肩に腕を回し、耳元に口を寄せた。キスしたんじゃないかと疑うほどの近さだった。司は跳ねるように腰をずらしてアキラを見た。
 その司の横顔を、僕は一生忘れない。瞳はうるんで上目遣いで、色白じゃないから分かりにくいけど、頬や耳は真っ赤だった。司、こんな顔するんだ。無表情でもクールでもない。可愛い、というのがぴったりだ。
 アキラは司の肩を引き寄せて、再び耳元で何か言った。司はもう飛び退かなかった。アキラに髪や首を触られても、下を向いてされるがままになっている。
 僕はアキラにやめろと言えなかった。司が喜んでいるのがはっきり伝わってきたから。司はアキラの太ももに手をつき、二人でコソコソと話している。僕は完全に蚊帳の外。いないも同然だった。
 このままここでやり始めちゃうんじゃないかと心配させるような光景を存分に見せつけてから、アキラは立ち上がった。もちろん司と一緒に。席を離れる時にアキラは小さく手を振ったけど、司は太い腕に包まれてこちらを見もしない。店の扉がカランと鳴り、閉じる。僕の目の前にあるのは三つのコップと伝票だけ。
 瞬く間の犯行に、僕はしばし呆然とした。盗られた…… 司のコップには半分くらいジュースが残っている。一口飲んだ後に何か言おうとしていた。変な味でもしたのかな。まさか惚れ薬? 僕は化学の授業で習った通り、コップの上を扇いで臭いを確かめた。
 これ、ジンジャーエールじゃない。アルコールだ。考えるのが面倒になってぐいっと飲んだ。やっぱりシャンパン! わざわざジュース用のコップにシャンパンを入れて持ってくるなんて、アキラは最初から司を奪う気満々だったんだ。
 司の態度はお酒のせいだったのだろうか。違う。司はアキラを気に入ったんだ。僕なんて視界から消えてしまうくらい強く。
 会計を済ませて(シャンパン代は請求されなかった)自分の部屋に帰っても、僕は司からもらったチョコレートの袋を開けなかった。捨てるのももったいなくて、パスタ入れの底の方に隠した。見える場所に置いておくのが辛かったから。
 今頃、してる真っ最中だろうな。もし二人がホテルではなくアキラの家に行ったとしたら、すぐ近所なのだ。激しい声が聞こえてくるようで、やり切れなかった。
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翼交わして濡るる夜は(その3)

 次の日、僕はにんにくと、母親が送ってきた赤なすとベーコンでスパゲティを作った。それにトマトサラダ(トマトを半分に切っただけ)を付けてモグモグ食べ終わらせてボーッとしながら、
「司とアキラのことは忘れよう」
 と決めた。恋人か友達かは分からないけど、僕は二人と仲良くなりたかった。誰にでも感じる訳じゃない「親しくなれそうな予感」があった。でも二人そろってあんな形で僕を侮辱するなんて許せない。脳の記憶領域を二人のために使いたくない。消去! 完全に消去! 向こうはとっくに僕を忘れているだろう。そう思うと涙がにじんだ。
 ひどい経験ではあったけれど、しょせんは二度会っただけの人たちだ。一週間もすると怒りは薄らいだ。半導体に光を当てて電力を発生させる実験のレポートを書いていたら小腹が空いたので、司のチョコレートを出して食べた。いかにも高級そうな、濃厚で苦い味がした。僕はそれを「一個十円!」と思いながら飲み込んだ。
 一ヶ月くらい経った後だろうか。司からメールが来たのでびっくりした。

 アキラって翼の知り合いなんだよね?
 すごく良い人だね。
 毎週末に会ってます。

 いやいや別に知り合いじゃないし! 君もろとも記憶から消したし!(全然忘れてないけど)あれだけ人を傷付けておいて、のんきな文章を送ってくる無神経さに腹が立った。
 しかしそれよりも、アキラを「良い人」と呼んでいるのが気になった。「楽しい人」ならともかく、ああいうタイプを「良い人」と感じるなんて、人間観察力が足りないんじゃないか。
 素敵だと思っていた司をけなすなんて嫌だな。僕はアキラに嫉妬しているんだ。……そうかな? 何か引っかかり、なるべく冷静になってもう一度考えてみた。
 僕はアキラをよく知らない。でも、僕の手に負える相手じゃないことくらいすぐ分かる。司はどうなんだろう? 僕は司のこともそれほど知らない。胸がざわざわする。
 司はアキラと対等に付き合えるような人間なのだろうか?
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翼交わして濡るる夜は(その4)

 大学は夏休みに入っていた。僕は塾のバイトのために熊本には帰らず家にいた。サークルの合宿や旅行に行く人が多く、僕はいつも見ていない生徒まで教えなければいけなくなって、中学三年生の国語の問題集を解いていた。理系の学生が古文の指導なんかして良いの? って冷や汗かきながら。
 だんだん飽きてきて、シャワーを浴びて寝ようかな、と考えていた午後十時。携帯電話の着信音が鳴った。

 会いたい。
 どこにいる?

 司からだった。唐突な文面が何だか怖い。でもまあ司は基本的にぶっきらぼうな人だし、会いたいと言ってくれたのは嬉しい。僕は「自宅にいるよ。来たければ来れば?」と住所を添えて返信した。
 五分もしないうちに玄関のチャイムが鳴ってゾッとした。何で…… ああ、司はアキラの家にいたんだ。アキラの家ってここからそんなに近いの? 嫌だなぁ。僕は顔をしかめたまま玄関のドアを開けた。
 司は夏休み中の大学生にしてはずいぶんきちんとした格好をしていた。鈍く光る真鍮ボタン。ネイビーブルーのシャツにいくつも染みを作って、司は泣いていた。
「どうしたの?」
 うつむいたまま何も答えない。腕を引っぱって家に入れると、司は靴を脱がないうちにしゃがみ込んだ。
「翼、助けて」
「アキラに何かされたの?」
 司は頭を抱えてしゃくり上げる。
「とにかくさ、こっち来て座りなよ」
 僕は司を無理に立たせて靴を脱がせ、椅子にもなる大きなクッションのところに連れてきた。お姉ちゃんから「分厚くて使いにくい。あげる」と押し付けられたタオルがあったのを思い出し、司に渡した。ふかふかし過ぎて本当に使いにくいのだけど、涙を拭くにはちょうど良さそうだった。
 クッションの前に片膝をついて司の顔を覗き込む。
「落ち着いた?」
 目からタオルを離すと再び涙があふれてはらはらこぼれる。
「何があったの? 警察を呼ぶようなこと?」
 司は首を大きく横に振った。服装や髪に乱れはなく、暴力を加えられた気配はない。
「俺のわがままなんだ」
 司がタオルを顔に当てたまま震える声で言った。
「アキラとケンカしたの?」
 司はまた首を横に振る。これは長くなりそうだな。僕はテーブルの椅子を移動させて司の前に座った。
「あの後、毎週会ってたんだ。アキラと」
「あの後って?」
「翼がアキラを紹介してくれた夜」
 紹介なんかしてないよ! シチュエーションが勝手に改変されてる〜 司の記憶、どうなってるの? お酒のせい? 忘れかけていたムカつきが一瞬でよみがえる。けれども僕は無言で耐えた。司があまりにも悲しげに泣き続けるから。
「もう恋人みたいなものなのかな、って思って…… でも、はっきり確かめるのが怖くて…… アキラに『恋人いるの?』って尋ねたんだ」
 いる訳ないじゃん! アキラは特定の相手と付き合うタイプじゃない。一回きりで終わらなかったのが不思議なくらいだ。僕はすっかりあきれてしまった。司、ほんとに何見て何考えてるの。
「そうしたら、
『俺は恋人という制度が嫌いなんだ』
 って言われた」
「制度?」
 結婚が制度なのは分かる。恋人も制度なんだ。言われてみればそうかもしれない。あのチャラチャラしたアキラが「制度」なんて堅苦しい単語を使ったのが意外だった。
「仲良くしていた二人が、恋人になった途端にケンカばかりするようになったのをいっぱい見てきたって。お互い束縛して、浮気したって騒いで。アキラはもっと自由にやりたいみたい」
「まあそうだろうね……」
「それでアキラこう言うんだ」
 急に強まった雨のように、司の瞳から大きな滴がポタポタ落ちる。
「『司も、俺の誘いを断って、別の奴と会っても構わないんだからな』って」
 にっこり笑いかけるアキラの顔が見えるようだ。良い人ですね〜 僕はため息をついた。
「それってさ、アキラも俺以外の奴と会う可能性があるってことだよね……?」
 当たり前! どうしてこの人はそんなことも分からずにアキラとやっちゃったんだろう。
 司は急に腰を上げて僕の太ももにのしかかり、Tシャツの裾をつかんできた。
「助けて、翼。アキラを誰にも取られたくない! 取られたくない!」
 駄々をこねる子供みたいに大声で泣き叫び、司の涙が僕の肌を濡らす。何て馬鹿な人。あのアキラを本気で好きになるなんて。僕にどうにか出来ることじゃない。さすがの司もそれくらい分かっているはず。だからこそこんなに泣くんだ。泣いたって仕方ないから泣くんだ。
「ねえ、司。寝ちゃいなよ。寝たら辛いことも遠くなるよ」
 僕は司の服を脱がして自分のパジャマを着せた。司の裸は均整が取れていて綺麗だった。スポーツをやっているのかな。元気になったら聞いてみよう。いつ元気になるのか知らないけど。
 僕のベッドに横たわらせても司はまだ泣いている。病人にするみたいに僕は司の手を握った。
「アキラのことを考えると体が痛くなるんだ。心のことなのに、全身がズキズキする」
「今はアキラを思い出さないようにしなよ」
「アキラのことしか考えられない」
 でしょうね〜 僕のことなんか全っ然考えてないのはよく存じております。白々と醒めた気持ちと、それでも司を可哀想に思う気持ちを行ったり来たりしながら、僕は司に付き添い続けた。
 しばらくすると司は寝息を立て始めた。僕はベッドの横に冬用の掛け布団を敷いてその上に寝た。
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翼交わして濡るる夜は(その5)

 曖昧な、覚えていられない夢をいくつも見た。普段と違う寝方をしたから眠りが浅かったのだろう。起きてみるとまだ六時前で、司は昨日と同じ形でよく寝ていた。僕はシャワーを浴び、卵とベーコンと高菜漬けでチャーハンを作った。仕上げに白ごまをさらさら入れる。
「翼、ごめん」
「うわーっ!」
 気付いたら、幽霊みたいにどよーんとした司がすぐ横にいた。
「脅かさないでよっ!」
「翼、昨日、ごめん」
「悪いと思ってるならすぐ食べて! 顔だけ洗って。洗面台はそっち!」
 テーブルに着いた司は泣いてこそいないものの、昨日と変わらず暗かった。一晩寝て解決する問題じゃない。司の沈んだ視線の先に、出来たての高菜チャーハンを置く。
「司、これ半分食べられる?」
 僕はメロンをかかげて見せる。
「けっこう大きくない?」
「無理?」
「ううん、食べられる」
「じゃあ切るからチャーハン先に食べてて」
 メロンを半分に切ってスプーンと一緒に出し、僕も高菜チャーハンを食べ始める。
「メロン、種は自分で取ってね」
 司は顔を上げた。唇に米粒を付けたままなのがメチャクチャ可愛くて、僕は突然泣き出したいような気持ちになった。でも我慢した。力を振りしぼって何でもないふりをした。
「翼って一人暮らしなんだよね」
「うん。……唇にお米付いてるよ」
 司は近くにあったティッシュで口を拭いた。少しホッとする。
「どうしてこんな贅沢出来るの?」
「贅沢?」
「メロンって高いんでしょ。自分で買ったことないから値段は知らないけど」
「母親が送ってくるんだよ。一人でダンボール一箱分のメロンを食べたら、いくら好きでも飽きるよね」
 メロンは熟れ過ぎて、少しお酒になってしまったのではないかと思うような香りが立ち昇っている。司は種を丁寧にすくってよけた。
「こんな風にメロンをグレープフルーツみたいに食べるの初めてだ」
「グレープフルーツもあるよ! 持って帰る?」
 司は僕を見て少し笑った。司の笑顔を見るのは初めてかもしれない。直視出来なくて、僕は下を向きメロンを真剣に食べた。頭がぼんやりするほど甘かった。
「チャーハンもメロンもすごく美味しかった。ありがとう」
 昨日よりは落ち着いた様子に見えたので、僕は自分の考えを伝えることにした。
「司。アキラにちゃんと付き合いたいって言いなよ。アキラが恋人という制度が嫌いでも、司がそれに合わせる必要はないと思う」
 司はおびえた表情で僕を見て、すぐ目を伏せた。無言になった後、再び視線が合った時には、瞳が潤み、声も震えていた。
「出来ない。俺、弱くてごめん」
「いや別に僕が口出す話じゃないし! 余計なこと言ってごめんね。気にしないで」
 また泣き出すかと心配したけれど、司はいつもの不機嫌そうな顔でじっとしているだけだった。
 結局、司にはメロンを二つ、グレープフルーツを三つ持たせた。
「迷惑かけて、お土産までもらって」
「食べ切れないんだから良いよ。駅まで送ろうか?」
「道分かるから大丈夫」
 もうアキラと会うのはやめなよ。悲しくなるばかりだよ。とは言えない。悲しくても苦しくても、司はアキラに会いたくてたまらないんだ。
「僕、東京にそんなに友達いなくて、一人暮らしだし、寂しいんだ。だから司、いつでもうちにおいでよ。ちっとも迷惑じゃないよ」
 早口で言いながら、毎回僕はみっともないなと苦笑したくなる。
「ありがとう」
 司を送り出した後、自分のベッドに顔をうずめた。馬鹿な司。馬鹿な僕。司が着ていたパジャマを抱きしめる。僕も司のように泣くのだろうか。僕が泣く時はきっと、このベッドに一人きりだ。東京に「助けて」と言える相手などいない。
 寝不足で頭に膜が張っている。でもバイトがあるから眠ってしまう訳にもいかない。僕は体を起こし、いつものように電子ピアノの前に座った。司と出会ってからずっと心の中で鳴り響いている旋律に、和音を付けてゆく。和音が僕の知らない旋律を呼び、それがまた和音を生む。僕はなるべく何も考えないようにして、観客のように指先が奏でる音楽を聴いた。
 自分の両手だけが本当の友達で、あとは世界中見知らぬ人しかいないような気持ちになりながら、僕は分厚い音の繭に閉じ籠もった。
posted by 柳屋文芸堂 at 10:48| 【長編小説】翼交わして濡るる夜は | 更新情報をチェックする